樋口了一インタビュー vol.6 | 樋口了一オフィシャルブログ「ポストマンライブ日記」Powered by Ameba

樋口了一インタビュー vol.6

こんばんは。


宣伝マンKです。


突然ですがライブ情報です。


■樋口了一ライブ「了~はじまりの風~」小樽編


・日時:12/8(土) 15:30開場/16:00開演


・場所:北海道・小樽市 市民劇場ヲタル座

     *ウィングベイ小樽3F 五番街



北海道にお住まいの皆様、観光で北海道に行かれる方、是非お越しくださいませ!







さて、インタビュー企画ですが、ちょっとアップが遅れています。すいません。。。



このインタビューは、まだ続きます。聞きたい話はまだあります。


本当は、アルバム発売に合わせて、まとまった形でインタビューを上げたかったのだけど、もっと話を聞きたいので、連載みたいな形(しかも不定期。。。)で、更新していこうと思います。




そんな中で、昨日こんな話を樋口さんとしました。



K「人間誰しも、人生の分岐点になるような場面の事って覚えていると思うんです。とは言っても、2つ3つくらいだと思うんですけど。そんなエピソードって。樋口さんは自分の人生の詳細を凄く良く覚えてるんですけど、それは何でなんですか?」




樋口さん「こんな話をアレンジャーと最近したんだけど、彼の好きなものってサッカーと宇宙と地理だということになって。その3つに共通してるのって、“配置”っていう事なんだよね。サッカーはフォーメーション、宇宙も星の配置。世界地図も配置。」


樋口さん「僕は歴史が好きなんだよね。だから物語を生きてるような感覚。音楽も僕が作るストーリーに、アレンジャーが音を配置しているという感じ。」




なんとなく解る。


ような。





今回は、デビュー前の話。


樋口さんは音楽にどのように出会ったのか。




それでは、どうぞ。











■樋口さんはそもそも音楽に出会ったのはいつでしょうか?

   黒髪町というところで生まれたんですけど、そこは学生の下宿街で。70年代の頃だからまだのどかな時代で、窓開けっ放しで大音量で音楽が流れてたり、ギター弾いてる音が聞こえてくるようなところで。だから、常に誰かが当時流行ってるロックとかフォークとかを流したり演奏しているような感じ。

そんなことが、幼稚園時代ですけど無意識のうちにあったというのと、最近facebookでも繋がったんですけど、今バルセロナでフレスコ画家になった人が家の近くに住んでいて、彼は当時中学生でロックがもの凄く好きで、ありえないような爆音で聞いてたんですね。それで、家族も入れないような爆音状態の部屋に、僕は幼稚園なのにそこに入っていって平気なフリをするというのが、何かカッコいいことみたいに思えてよく行っていたんですよ。

そこでシカゴとか、レッド・ツエッペリンとか流れてるんだけど、そこに入って「うわ―、ロックってでかいんだ」っていう、子供ながらに感じた印象があったんですよね。それと、音楽として美しいんだ、きれいなんだっていう事を思ったのが、ショッキングブルーっていうオランダのバンドで、当時ダッチロックブームっていうのがあったんですけど、その中で「悲しき鉄道員」って言う曲が、マイナーでジプシー風っていうか。その曲が好きで、毎回、彼の家に行くとかけて貰ってたっていうのを思い出しますね。それで、そのシングル盤を彼が「俺、もう聞かないからやるよ」って貰って帰ったんですよ。いまだに家にありますけどね。当時、69年だから、5才か6才くらいの話。

■音楽との出会いは幼稚園の頃ですか?

 ほぼ毎日遊びにいってたと思うんですよ。日曜なんかは昼真っから遊び行って。友達と遊びに行けばいいんですけど。彼といつも一緒にいて。

彼も今芸術家やってるくらいだから、その頃から個性の強い性分でね。きっとケンカばっかりしてたと思うんですよ。それで孤立してたんじゃないかと。だから、幼稚園の僕なんかを相手にしてくれてたのかもしれない。わかんないけど。勝手な僕の想像ですけどね。(笑)

中学生と、幼稚園児という、とにかく奇妙な人間関係というか、リレーションシップでしたね。そんな中でね、少年ジャンプの「男一匹ガキ大将」の絵をね、漫画家よりうまく描くんですよ。そんなのを2時間くらいかけて描いて僕にくれたりするんですよ。そんな関係でしたかね。その絵がサイン入りだったんですよね、彼の。それ持ってれば、今、、、(笑)

■現在は芸術家として活躍されてるんですね。その方は。さて、その後、小学生になって、、、

   家を中心に音楽が周りに溢れていた場所で暮らしてたんですけど、いかんせん、家にステレオが無かったんですよ。音楽は聞かないし、テレビはNHKのニュースしか見ないし。うちの中はほとんど音楽が流れてなかったですね。

良く話してるんですけど「黒猫のタンゴ」が流行った時に、みんな持ってて見せあいっことかしてるわけですよ学校とかで。で、持ってないのが僕ともう一人くらいで。それで親に言うわけですよ「みんな持ってるんだから買ってくれ」って。そうすると親父は「持ってたってしょうがねえだろ。うちにはステレオ無いんだから」となる。

それでみんなでデパート行った時に「おう!これか」ってレコード屋さんで「黒猫のタンゴ」を手にしたから「お!買ってくれるのか!」って思ったら、親父が店員さん呼びつけて「すいませ~ん。これ中身あってもウチは必要ないから、ジャケットだけ売ってくれませんかね」って言うんですよ(笑)ほんとビックリ!大人がそんなこと言うのかって(笑)相当ショックで。本当にトラウマになったんですよ。だから、未だにアナログ盤買ったら手放さないですよ(笑)

■以前に聞いたお父さんのお話から、性格なんかも解ってきたのですが、こと音楽に関しては何か敵意みたいなものすら感じますが。

   いや~、それは音楽だけに向けられたものではなく、すべてが緊縮財政なわけですよ。だからって生活が貧しいわけじゃない。自分が若い頃に相当苦労してるんですよね。子供の頃に砂食って生きてるような。。。だから、余分なものは省きたい。だって、公務員の癖に、毎回空港の公共の駐車料金値切るんですから(笑)そんな一環で、「こいつはジャケットだけ買えば満足するんじゃねーか」って思ったんでしょうね。

  そういえば、1970年だったかな。7歳の頃。

俺「LET IT BE」は覚えてるんですよ。親父のパプリカっていう車のラジオから「LET IT BE」が流れてきて。例の中学生の彼の家で聞いたことがあるから知ってて、親父に「なんていう曲なの」って聞いたんですよね。そうしたら親父が「おう、これはなジャズ。ジャズっていうんだ」って言ったんですよ。今だったら「それはジャンルだろ!」って(笑) 

日本以外の曲はすべて「ジャズ」っていう言葉で処理してたんですよ。だから暫く「ジャズ」っていう曲だと思ってましたから(笑)そんぐらい我が家では音楽は無縁で。だから自分が「音楽やりたい」って言った時の親父の衝撃は計り知れないわけですよ。

■その後はどうなっていくのですか?

   僕は幼稚園の頃、オルガン教室に行ってたことがあるんですけど、全然上達しなくて、自分は音楽の才能が無いんじゃないかって思ったんですけど、その後やっぱり音楽やりたいなって思ったのが中二の時で、高校入ってからなんですよねギターを手にしたのは。

■そのギターが例の。。。

   そう。パンダスタンプ。(熊本の人なら知っているニコニコ堂とかで配布されていたクーポン券)中三の春から、100円買うクーポン券が1枚貰えるんだけど。それを冊子に何枚も貼って、それを33冊集めるとアコギが貰えるんですよ。パンフレット見て「うわー、これ欲しいなあ」って。お袋が買い物行くと、全部スタンプ回収して、それを貼って。当然買ってくれるわけ無いから、あの親父が。それで、晴れて高一の春に手に入れたわけです。

   フェニックスっていう、フェンダーのバッタもんみたいなギターで。思いっきり弾きにくいんですよ(笑)弦高が高くて、硬くて。だから大リーグボール養成ギブスみたいな感じでしたよ。最初があれだったから良かったのかもしれないけど。

■その時お父さんは何か言ってたんですか?

   いや、全然。どうせ長続きしないんだろうって。全く気にしてませんでしたね。ところが、僕は違ったわけです。「これが自分の道を示してくれる」っていうくらいのもを手に入れたわけですから。それから部屋にこもってギターしか弾かなくなったんですけどね。

 

高校1年当時のクラスが音楽クラスだったんで、そういうことを趣向している奴が多かったんで「みんなで軽音入ってバンド組もうぜ」って話になって、それでバンド組んだんですよね。僕はギターをやりたくてギターを希望したんですけど、ギターやりたいっていうのが3人いて、「じゃあジャンケンだ!」でことになって負けちゃって、ボーカルになったんですよね。「恥ずかしいなあボーカルって」と言いながら歌ったのが初めてでしたね。