オイラの性癖はこのブログにも、少しばかり書いてきた。あまり過激な表現を使うと、アメブロの運営から『不適切な表現の可能性』という訳の分からない理由で、閲覧禁止になるので、伏せ字にしたり表現をぼかしてきた。今回の記事は内容はどうあれ、タイトルだけで閲覧禁止になるかもしれないなぁ…。

若い頃は体力と性欲に任せて、ただただがむしゃらに、女性の体にむさぼり付いていた。20代半ばに本当の意味でセッ○スでを好きになり(こちらの記事参照)、30前後には円熟期を迎え、若い女の子を自分好みに育てたりもした。基本的にドSなセ○クスを信条としてきたが、40歳を手前にしてから、セッ○スへの興味が急激に薄らいだのである。病気の影響もあって、ED気味になったことも無縁ではないが、不思議なくらい冷めたのだ。

そんなときに何かの本で見たのが、スローセックスだった。ただただ絶頂を求めるだけの、男本意のセッ○スではなく、男女が互いにいたわり合い、肌の触れ合いを楽しみながら、時間をかけて行うセ○クスのことだ(詳しくはこちら)。考えてみればオイラは、若い頃からセッ○スよりもキスの方が好きで、キスの方が興奮する。さらには事後のピロートークも好きな方だ。ひょっとするとオイラには、スローセックスの方が向いているのではと思った。

しかし残念なことに、当時のオイラは彼女不在で、確認する手段がなかった。しかし神様はオイラを見捨てなかった。昔付き合ってた女性から、ひょんなきっかけから連絡があり、焼け木杭に火がつく形で、そういう機会が訪れた。スローセックスの基本は愛である。根底に確かな愛がなければスローセックスは成立しない。昔の彼女に愛があるかと聞かれたら、正直言ってあまりない。だがオイラは昔の愛を掘り起こして、スローセックスを実践した。もはや通常のセッ○スと、スローセックスは別物と言ってもよい。確かな快感を感じることができた。彼女も昔のオイラのセ○クスを知っているだけに、その時の変貌ぶりに驚いていた。

その後、絶頂を知らない保育士とのセ○ッス(詳しくはこちら)の時にもスローセックスをベースにしたからこそ、絶頂を教えることができたと思う。このスローセックスを知ったことで、オイラの性生活はこれからもしばらく楽しめそうである。
どんな人でも人生の中で、3回のモテ期が来るという。オイラは小学校高学年の時から、30代半ばまでずーっと誰かと付き合っていたので、長ーーいモテ期が1回来ただけなので、これからあと2回来ると思って期待している(笑)そんなオイラも一番モテていたのは、中学生の頃だったのは間違いない。

中3の頃には181センチ78キロ、というスペックだったので、見た目だけでもモテたという面もある。高2くらいから横にも成長したため、一目惚れされることとは無縁になったが、中学生の頃は結構告白もされたし、憧れの先輩的な存在にもなった。

それでは懐かしのモテエピソードをいくつか紹介。剣道部に所属してたオイラは、小学2年生の頃から続けていたこともあって、そこそこの腕前でだった。1年生の時から大将という要のポジションを任されており、学区内でも一目おかれる存在だった。剣道部は多くの学校で、所属部員数がさほど多くないため、他の学校に出稽古に行くこともあった。そんなときが他校の女子へのアピールチャンスだ。

ひときわ背の高いオイラは、稽古中も目立つ存在だ。しかし目立ったところで、それは女子へのアピールには繋がらない。やはり強さを見せつけることが、一番のアピールとなる。また、稽古中は面を被っているので、顔が判らないため、直接的なアピールは難しい。ところが剣道の防具には垂という、腰に着ける防具があり、そこにデカデカと名前が刺繍されているので、名前を覚えてもらうにはもってこいだ。

稽古の最後は出稽古先の学校と、試合形式の稽古で締めるのが恒例だ。まさにその時が最大のアピールポイントである。通常の試合では勝ち抜き方式ではなく、団体戦でも一人一試合だが、練習試合では自由に決められることが多い。そんなときは必ずといっていいほど、オイラは勝ち抜き方式を希望した。

普段は大将として最後に試合に臨むが、出稽古の時は先鋒として、最初の試合から出る。そして相手校の全部員を勝ち抜くのである。そして大きな注目の中、稽古が終わり面を外す。それで何人かの女の子は、間違いなくオイラに惚れていた。次の出稽古の時には、相手の部員経由で紹介されたり、直接告られたりして一丁上がりだ。

もう一つモテ話を…。中3のバレンタインの話。中3の2月は私立の高校受験の試験や合格発表の時期で、学校の授業はあってないようなものだった。合格発表がある生徒は、途中で抜けて受験した高校に見に行く。2月14日のその日、オイラは滑り止めの私立高校の、合格発表が控えていた。通常通りに登校し、自習の授業を教室で受けて、時間になったら各々が受験校に見に行く。その滑り止め校は、受験者が少なく、一緒に行くヤツもいなかった。

10時過ぎにオイラは教室から抜け、学校前のバス停に向かった。バスを待つ内に女の子が10数人、バス停にやってきた。どこかの女子高の合格発表でもあるのかと思っていたが、知った顔が一人もいない。サブバッグのリボンの色を見ると、全員3年生ではなかった。こんな時期に部活の遠征も無いはずなので、不思議に思っていたが、それ以上深く考えることなく、到着したバスに乗り込んだ。

終点のJRの駅に着くまで、彼女たちは一人も降りず、オイラと同じその駅で降りた。するとバスのターミナルにも数人の女の子グループがおり、その子たちは制服から、他校の生徒であるとわかった。そんなグループが3つはあったように思えた。バスから降りた10数人と、ターミナルにいた数グループの女の子たちは、特に合流する様子もなかったが、改札へ向かうオイラの後からついて来た。

券売機で切符を購入し、改札へ向かっていたときだ。一人の女の子がサブバッグから、派手な包みを取り出して『オイラ先輩受け取って下さい!』と言いながら、オイラの方へ包みを差し出した。その一言がまるで合図だったかのように、他の女の子たちが一斉にオイラを取り囲み、各々が用意したチョコレートを、次々と手渡してきたのだ。たちまちオイラは持ちきれないほどの、大量のチョコレートの包みにまみれることになった。渡すなり女の子たちは一斉に、オイラから離れたため、改札の前で派手な包みをたくさん持った男が、一人ポツンと取り残された。キオスクのおばちゃんが、見かねてビニール袋を持ってきてくれた。

さすがにこんなに派手な荷物を持って、合格発表に行くわけには行かない。合格する自信はあったが、万が一落ちたらものすごく恥ずかしい。オイラはチョコレートと手紙類とを分別し、手紙類だけを持ち、残りのチョコレートは駅のコインロッカーに入れて、合格発表に向かった。実はオイラ、チョコレートが苦手なのだ。しかも合格発表後は、当時の彼女とデートだったので、持って行くわけには行かなかった。

合格発表後、彼女と合流すると、ちょっと拗ねて様子たったが『オイラがチョコレート嫌いなの知ってるの、ワタシだけだもんね~』とすぐに機嫌を取り戻した。オイラは心の中で(お前だけじゃねーけど…)と思いながら『だよね~』と同意した。この頃が人生最大のモテ期だったのは間違いない。

これからもっとスゴいの来るかな~?
俺が高校2年生のころに付き合い始めて、3年の春に別れた女の子。名前はN子と言い、女子校の女の子だった。きっかけは同じクラスのH美の、中学時代の同級生ということで、紹介してもらったことだった。とても大好きだったが、部活の最後の大会や、受験勉強のために、どちらから言うわけでもなく別れてしまった。恐らくお互い、嫌いになった訳ではなかった。

彼女と別れて4~5ヶ月後の秋、俺は最後の文化祭の準備をしていた。文化祭の準備は、独特の雰囲気で、楽しいものだ。高3のそれともなると、部活の最後の大会も終わり、受験前の最後の思い出づくりということもあり、その興奮やウキウキ感は格別だった。

文化祭準備最終日のその日、各クラスともに、深夜になるまで残って、最終の仕上げにかかっていた。そんな時に3年では別のクラスになっていた、H美が俺の教室に飛び込んできた。いつもクールなH美が、明らかに取り乱していた。H美は俺の腕をつかむと、何も言わずに廊下に引っ張り出した。そしてN子とはどうなっているかを聞いてきた。俺は口ごもりながらも、この春に自然消滅的に別れたことを話した。

H美『じやあ言うべきじゃないかもだけど…、N子が事故に合って、意識不明だって、N子のママから連絡あった』

それを聞いた瞬間、目の前が真っ暗になった。と同時にH美の腕を掴んで、走り出していた。学校に隣接する団地の駐輪場に隠してある、原チャリのところまで走りながら、N子の搬送された病院を聞いた。原チャリのエンジンをかけると、H美が私も行くと言った。俺はメットをH美に投げ渡した。ノーヘル、2ケツ、原チャ通学、警察に見つかったら停学、いや退学になるかもしれなかったが、そんなことは考えの隅にも浮かばず、必死に原チャを走らせた。走りながら『嘘であって欲しい』と思っていた。幸い警察に捕まることなく、病院に着いた。

病院の待合室にはN子のご両親がいた。俺とH美に気付くと、お母さんが近寄ってきて、泣きながら首を横に振った。H美がその場で泣き崩れ、俺はH美を長椅子の方へ連れて行き、ゆっくりと座らせた。俺は現実感がなく、涙の一つも出なかった。明け方までH美は泣き続けたが、それでも俺は泣けなかった。N子の遺体は損傷が激しく、俺たちは彼女には会わずに帰った。

N子の通夜では俺とH美は、受付や料理の配膳なとを手伝った。深夜になり参列者がいなくなった葬儀場、俺たちはようやくひと息つくことができた。ご両親がありがとうとお礼を言ってくれた。その時、N子のお父さんが口を開いた。

父『俺君とN子がまだ付き合ってくれてればなぁ…。N子は死なずに済んだかもしれんなぁ。いつもN子を門限までにちゃんと送り帰してくれてたからね』

N子は事故当日、予備校の帰りに友達と寄り道して、門限を過ぎた時間に事故にあっていた。俺は彼女と付き合っていたころ、どれだけ彼女が甘えても、必ず門限の20時までに家に送り届けていた。お父さんはそのことを言っていたのだろう。その言葉は別れる理由が見つけられなかった俺には、まるでお父さんに責められてるように聞こえ、胸の深くまで突き刺さってきた。翌日の告別式も無事に終わり、俺とH美は家路についた。

告別式から一週間、俺とH美はN子のお母さんに自宅へ招かれた。通夜、告別式の手伝いのお礼がしたいとのことだった。俺は気が進まなかったが、H美が一人では行けないし断れないと言うので、行くことにした。家にはまだN子の遺骨があり、遺影と花が飾られた台の上に置かれていた。通夜、告別式の時には気付かなかったが、遺影の写真は俺が撮影したものだった。俺とH美は線香をあげ、お母さんと思い出話をした。俺はほとんど黙っていた、H美とお母さんは時折涙しながら、話をしていた。

話疲れたのか泣き疲れたのか、H美は眠気におそわれたらしく、ウトウトし始めると、そのままソファで寝てしまった。N子のお母さんと俺の間に沈黙が訪れる。お母さんは席を立つと、リビングから出ていった。戻ってきたお母さんの手には、一冊の日記帳が握られていた。お母さんは俺の前にその日記を置き、読んでみてと言った。

その日記の1ページに、付箋がいくつか貼られていた。お母さんはそこを読んで欲しいと言った。それは俺と連絡をとらなくり始めた頃の日記だった。そこには『絶対に俺君と同じ大学へ行く!』と書かれていた。彼女は女子大付属の女子校に通っていた。そのままエスカレーターで進学すると聞いていたので、俺と同じ大学に行くことはないと思っていた。しかし、彼女は俺と付き合って、同じ大学に行きたいと思い、受験勉強を始めたのだという。そのためには半端な勉強では間に合わないので、俺との連絡もとらないで、受験勉強に集中する決意をしたのだという。それを見て初めて、N子が予備校帰りに事故に遭ったことに合点がいった。次の付箋はある夏の日の日記で、模試の結果が貼り付けてあり、俺の志望校への合格率が80%となっていた。そこには『やったー!でも気を抜かずに頑張る!合格してサプライズ!』と書かれていた。彼女は俺に黙って同じ大学を受け、合格したらサプライズで報告するつもりだったらしい。

俺はその日記を読みながら、あふれる涙を止められなかった。N子は俺を驚かし、喜んで欲しくて、しなくてもいい受験をして、いかなくてもいい予備校に通い、その帰りに事故に遭ったのだ。俺と出会わなければ死なずに済んだかも知れない。そんな思いがこみ上げてきた。N子のお母さんはそんな俺の心を見透かしたように、俺君と出逢えてN子は幸せだったのよ。そう言ってくれた。そして俺君と出逢う前の日記も読んでみて、と付け加えた。

俺と出逢う前の日記は、それが同じ人の文章とは思えないほど、感情のない日々の出来事を綴っただけで、書いてある日にちも月に4、5日程度だった。出逢ってからの日記は、毎日書かれていて、感情も正直に綴ってあり、ケンカした日には俺への怒りも綴られていた。お母さんはそれだけ毎日が充実してたのよ、俺君ありがとうと言ってくれた。その言葉に俺は救われた気がした。

今月27日はN子の命日だ。あの日から毎年欠かさず、N子の命日にはH美と共に、墓参に出向く。N子は永遠の17歳として、俺たちを出迎える。今年は24回目、外出許可はもうとった。42歳のおっさんは、今年も逢いに行くよ。