昔から「悲しい」という感情を、

そのまま受け取っていた。

単純に自分の中でなら、

「悲しいことがあった、それは悲しい。」

とだけ解釈していた。


最近、解散騒動があったAqua Timezというバンドが昔から好きで

太志さんの作詞で書く世界観は「綺麗事」とネタにしつつも

何度も心に向き合わされた、素敵なものだった。


「小さな掌」というシングル曲がある。

俺の中でも、結構上位に入る好きな楽曲で

作詞にとどまらず、曲の温かみも相まって心に染み込みやすい。

今回の記事に関しては、

残念ながらAqua Timez愛を語る記事ではないので

内容はかなり略して書くことになるのが残念だ。


初っ端からなのだが、

「いつだったかなぁ

奥歯を噛み  立ち止まらせたはずの涙に

悲しみを悲しむということを  教わったのは」

という歌詞がある。


この歌詞を読んだのは、

この曲を覚えて初めてカラオケで歌った時だった。

とんでもなくどうでもいい話だが、

俺は太志さんと歌声が似ているらしいので

夜職時代はよく、歌ってほしいと言われていた。

モノマネのために聴き始めたら、どハマりした。

そんな経緯がある。


「悲しみ」はそれ単体では存在しえない。

もっと言うのであれば、

「悲しみを悲しみにしてしまう」からこそ、

「悲しみ」として存在するのだ、と思った。

この歌詞の通りだが「いつだったかなぁ」という表現は

それを思い出せないくらい子供の時に感じていた、ということ。


子供の時に、無意識に

「悲しいは悲しいこと」

ということを知って生きてきたわけだ。

でもそれは普通に生きてきただけでは、

言語化して目に入らないものだから

この歌詞を見るまでの俺は、

悲しいは、ただ悲しいから

という思考だったことを思い知った。

俺もどこかで

「この悲しいは、悲しむものと知ってきた」

はずだったのだ。


別に悲しいや、嬉しいといった感情にとどまらず、

この世の物事は全て、そうであると思う。

皆、何かに結びつけて「知って」きたはずなのだ。


ただ、俺が泣けたり悲しいと思うことが

他の人に伝わらなかったり、

全然違う感情だったりすることがある。


これがいわゆる価値観の違いってやつで

受け取る側で、その「悲しい」は変わるということ。

これをまず理解しなければいけない。

仲のいい人ほど、同調したり、

価値観を共有したくて

「押し付け」

のようなことをしてしまう人がいる。


少し前までの自分もそうだ。

自分の感情なんかが、

他人と同じでないと不安になってしまっていた。


だが、一人一人生きてきた環境は違う。

だから受け取り方は、人の数だけ違う。


このことに気づいてから、

不安になんてならなくていいんだ

という考え方ができるようになった。


俺は昔「失敗をしたら嫌われるかもしれない」と思い込んでいた。

「他人に迷惑をかけてはいけない」

そんな考えが心の根本にこびりついていた。


これは日本の子供の頃からの教育の賜物で、

これを完全に否定するわけではない。

素晴らしい文化だとは思う。


だが、それが全てになってしまっていて

それが「常識だから」

という洗脳じみた思考なら、素晴らしくも何ともない。

ただの害でしかない。


受け取り方は人それぞれ違う。

全てが正義じゃない。

そもそも絶対的な正義なんて存在しない。

その事実を受け止めるべきだ。

「〇〇はよくない」という、

その意見に芯や、理由があるのはいい。

ただ、それを押し付けるのは果たして正義なのか。

「正しい」は正義ではない。

「一般常識」も正義ではない

そこに疑問を感じているからこそ、周りの目が気になってしまう。


でも、受け取り手の問題であることは

こちらが変えることはできないのだから

もう受け取り手のことなんて考えなくていい。

生きていればどこかで、誰かに迷惑はかけて生きてきている。

「他人に迷惑をかけちゃダメ」

そんな言葉にとらわれて、何もできなくなっているのであれば

何もすることができないで生きてきたとしたら

逆にもう気にしなくてもいいと思うんだ。

それが迷惑かどうかなんて、

受け取り手の話であって

こっちは知りようがないのだから。


自由に生きる、まずは手始めに自分の心に優しくしてあげることだと思う。

そして、他人の心は知らんぷりでいい。

本当に仲良くなれる人は、そこまで受け入れてくれる人だから。