源氏物語 | higo-mokkoshuのブログ

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『源氏物語』における死別表現と仏教思想の文学的昇華

紫式部の宗教的距離と文学的達成

一 はじめに

『源氏物語』は、平安時代中期の貴族社会に生きる人間の情感と無常観をきわめて繊細に描き出した文学作品である。その中でも「死別」の描写は、個人の悲嘆を超え、仏教的教義と深く交錯しつつ文学的象徴へと昇華している点に特徴がある。
従来、『源氏物語』と仏教思想の関係に関しては、宗教的受容の範囲や教義的正確性に焦点をあてた研究が中心であった¹。しかし、物語が仏教思想をどのように詩的・象徴的構造として再構成しているかという観点──すなわち、文学的表現と宗教的理念の媒介──に注目した研究は、必ずしも十分とはいえない。
本稿では、死者の「たゆたい」および阿弥陀如来の光の象徴性を中心に、『源氏物語』における仏教思想の表現とその文学的意義を考察する。また、紫式部が示す宗教的距離、すなわち信仰的一体化を避けつつ思想の深層を美的構造として取り入れる姿勢を解釈の軸とし、その文学的達成の本質を明らかにする。

 

 

二 死別描写における仏教的要素とその再解釈

『源氏物語』「若紫」巻において、葬送や病の場面を通じて死の予兆が詩的情景として描かれるように、物語全体を通じて無常の感覚は心理描写と不可分である。「御法」巻における紫の上の死は、仏教的儀礼に支えられながらも、浄土教的救済に単純に収斂しない複雑な情感を喚起する場面である。
光源氏は臨終の紫の上に読経を施し、供養を尽くすが、その姿は信仰の静謐に安らぐものではない。むしろ彼は死の不可避性に直面する孤独な存在として描かれており、その悲嘆は宗教的形式を超えた人間存在の儚さを照射する²。
紫式部は、この「信仰の救済」と「情の苦悩」とのあいだにある裂け目を文学的に提示し、浄土往生の理想を現実からの離脱ではなく、無常の美的自覚として再構成している。宗教的要素は彼女の筆において、「救済の教え」ではなく「感情の極点」として変容していると言える³。

 

 

三 仏教的語彙と文学的装置の融合

『源氏物語』における仏教的語彙は、人物の内面描写および主題の構築において重要な役割を担う。「無常」「宿世」「往生」「阿弥陀」「薫習」「影向」などの語は、仏典における形而上学的用語でありながら、物語内部では感情の層位として転用される⁴。
特に「もののあはれ」という表現は、美的感受性として論じられてきたが、それは「諸行無常」の教義を情感に置換した形とみることができる⁵。また「宿世」という語は、前世因縁の観念を恋愛や死の宿命性に転写し、個人の運命意識を支える叙述装置となる。
このように、紫式部の語法は仏教形而上学を詩語へと転換し、教義的記号を心理的象徴へと転化することで、思想と言葉との中間領域を開いている。

 

 

四 死者の「たゆたい」と阿弥陀の光の象徴性

(1) 死者の「たゆたい」の意味

『源氏物語』において死者は、多くの場合「成仏」や「往生」を果たし切らず、現世と他界のはざまで〈たゆたい〉、未練を残す存在として描かれる⁶。紫の上の死後、光源氏が覚える虚無感・不安は、彼女の魂が未だ浄化されぬ「漂い」の状態にあることへの直感にほかならない。仏教的にはこれは中有(中陰)の迷いに相当し、人間の煩悩や執着の残影と解される。
しかし、紫式部はこの状態を否定するのではなく、人間存在の「未完性」「感情の持続」を象徴的に描く。彼女にとって死後の漂いは、悲しみそのものが生の相続であり、文学が死者と生者を媒介する場であることの証左となっている。

(2) 阿弥陀如来の光の象徴性

阿弥陀如来は『無量寿経』において「無量光」「無辺光」と称され、衆生を遍く照らす慈悲の光明である⁷。『源氏物語』では、この光がしばしば薄明や月光として象徴化され、死者の魂を包み込む詩的イメージを形成する。
「御法」巻の夕暮れの場面において、阿弥陀の光は直接描かれないが、沈みゆく光と静寂の描写が、死後の救済と生者の祈りの交錯を示す。光源氏は紫の上の魂が光に包まれることを願い、供養の行為を通して彼自身もまた阿弥陀の慈悲に触れる契機を得る。ここに、悲嘆そのものが救済の構造の内に包摂される文学的構図が生まれる。

 

 

五 紫式部の宗教的距離と文学的昇華

紫式部は、仏教的救済思想を絶対的真理としては描かない。彼女が描くのは、信仰を媒介としながらも情感の浄化を美的契機とみなす知的距離の構造である。
この「宗教的距離」とは、信仰の形式を保持しつつもそれを文学的表現の素材として再構築する態度であり、信仰と表現の狭間に創造が成立するという構造を持つ⁸。
死者の〈たゆたい〉を否定せず、阿弥陀の光がその悲しみを包み込む構図は、宗教教化ではなく文学的救済の形式を提示している。すなわち、悲嘆が阿弥陀の光によって照らされるとき、紫式部の筆致は信仰の枠を超えた「美の宗教性」に到達するのである。

 

 

六 結論――たゆたいの中に差し込む光

『源氏物語』における死別表現は、仏教的救済の理念と人間的感情の葛藤を交錯させ、両者を「美」の構造へと統合している。その中心に位置するのが、死者の〈たゆたい〉と阿弥陀の光である。光は迷いを否定するのではなく、迷いを包み込み、新たな意味として再生させる。
紫式部の文学的技法は、教義の伝達ではなく「感情の救済」として仏教思想を再構築する試みであり、その宗教的距離のうちにこそ、平安文学が到達した精神的成熟と美的深化を見ることができる。

 

 

 


西山宗因「『源氏物語』と浄土教思想」『仏教文学論叢』第32号, 2005年.
小滝真弓『源氏物語における仏教受容の研究―聖性の表象と陰影―』明治大学博士論文, 2018年, 47頁.
岡本かの子『紫式部の美的情緒と浄土教』(青空文庫, 初出1939年).
佐藤勢紀子『源氏物語の仏教思想』東北大学博士論文, 2020年, 第2章.
吉海直人「もののあはれ再考」『国文学 解釈と鑑賞』第64巻第8号, 1999年.
春日美穂『平安時代文学作品における仏教的事項についての研究』CiNii Research, 2021年.
『無量寿経』巻下「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」句.
明治大学古代学研究所編『源氏物語と仏教―仏典・故事・儀礼―』青簡舎, 2016年.