あるときはエンジニア、またあるときはゲージュツ家、そしてまたあるときはバス運転士、その実体は心理学者(臨床心理・人間科学)でもあるバス次郎のブログへようこそ!!
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こんにちは( ◠‿◠ )
毎日暑い日が続いていますがお身体は大丈夫ですか?
異常ともいうべき気温です。35℃以上なんて昔だったらあり得ないですね。
それが今では・・・。地球も病んでいるのかもしれませんね。
バス次郎も暑いのは大変苦手なのでヘトヘトな毎日を過ごしています
この暑さのせいで食欲はかなり落ちていますが水分補給だけは気をつけています
ちなみにバス次郎はこれが好き。
みなさんもお身体には十分にお気をつけくださいね
はじめに
地味に生きているバス次郎です。
バス次郎が”幸せ”を感じるように日々過ごせるのは『地味だけど生き辛くない生き方』をはじめてから辛い生き方から解放され幸せな生き方へ変わりました。
恩師のお陰で幸せを感じながら生きています。感謝ですm(_ _)m
今日は「幸せを感じる生き方」についてバス次郎流のお話しをしてみたいと思います。
どうすれば幸せになれるの?
バス次郎の”心の相談室”には「先生、どうすれば幸せになれますか?」って相談されることもよくあります。「幸せになる」という表現はバス次郎からするとちょっと違和感を感じます。
「なる」は「成る」ですが、「無い」状態から「有る」状態に「成る」ことだったり自分が成りたい自分に成ることだったりを表現する場合の「成る」だと思うのです。
”自己実現”に向き合った生き方をしていくと苦しいほどに矛盾と向き合いながら自己実現の道を進まなくてはなりません。
”自己実現”とは自分自身が持っている才能、能力、適性と言ったものから自分自身が成り得る姿に”成る”ということです。
引用:バス次郎,自己実現は妄想であると言うお話し,06.25.2021,
「幸せになる」と言うと”幸せに成る”事が目的になってしまい自己実現の矛盾にハマってしまいます。”幸せ”というものは感情表現の一つであり自分自身の感情として”幸せ”を感じる感情が日常生活の中で持続できる”かどうかだと思うのです。
「幸せ(幸福)」という言葉についてうまく表現できているなぁと感心したのが
以下の引用記事です。文字装飾はバス次郎が追加しました。
人間は生きていくなかでさまざまな欲求をもち、それが満たされることを願うが、幸福とはそうした欲求が満たされている状態、もしくはその際に生ずる満足感である、とひとまずいえよう。
人間はだれしも幸福を求める。
しかし、人がどのような欲求の満足を求めているかに応じて、幸福の内容もまたさまざまである。いわゆる幸福論や人生論は、人間にとって真の幸福とは何かを語るが、語り手によって幸福の内容がそれぞれ違うのも、ある意味では当然であろう。
感性的な欲求の満足にのみ幸福を求める人は、一般に快楽主義者とよばれる。この場合幸福とは感性的快楽であり、古代ギリシアのエピクロスがこの種の快楽主義を主張したとされ、そこから快楽主義者はエピキュリアンとよばれたりする。しかしエピクロス自身は、真の幸福はかえっていかなる欲求によっても心が乱されない境地(アトラクシア)にあると考えた。
東洋では、悟りの境地とか無の境地といわれるものがこれに近いであろう。ここで求められているのは、感性的欲求の満足ではなく、精神的安定を求める欲求の満足である。
ストア派の人々も、理性の指図に従って自己を支配し、克己禁欲的(ストイック)に生きることに幸福をみいだした。ストア派に限らず、総じて自己の人格的完成に精神的幸福を求める人々は、感性的快楽を低次の幸福とみなし、それを否定する傾向にある。
以上の見方はいずれも個人の幸福を主眼としているが、人類全体の幸福の促進を重視する倫理説もある。
たとえば功利主義によると、倫理的によい行為とは、「最大多数の最大幸福」を求める行為である。この幸福には感性的快楽のほかにさまざまな精神的快楽も含まれるが、実際に多種多様な快楽の総和を計算で知ることは困難であり、今日では功利主義の原則は、快の増大よりもむしろ不快(苦)の減少に適用されている。
つまり、地上から人類の不幸をできるだけ除去することが幸福の増大につながるとする見方であって、マルクス主義のなかにもこの種の見方が形を変えてみいだされる。
なおカントは、幸福を直接目的とするいっさいの幸福主義倫理を退け、道徳法則に従う有徳な生活を重視する。有徳な生活はただちに幸福ではないが、「幸福を受けるに値する」生活であって、徳と幸福との一致も、有徳な生活を通じてのみ望みうるのである。
[宇都宮芳明]
幸せ(幸福)は時代背景や当然人によってもその考え方は違って当たり前です。
その考え方は”感性的欲求による追求”と”精神的安定を求める追求”の2つの捉え方が基本的な捉え方です。
どっちが良いとか悪いとかの話しではありません。どちらも人間が生きていく上で必要な欲求なのです。ただし、そのバランスが重要であって極端にどっちかに傾いて生きていくことは好ましい生き方とは言えません。
感性的欲求の追求
所謂、快楽主義者のことですが、バス次郎の経験から快楽の追求と幸せは反比例の関係にあると考えています。
”快楽”とは人間の本能に基づく感情を表現したものであり、三大欲求(食欲・睡眠欲・性欲)が満たされたときに感じる”快感”のことであってこれは動物的な欲求です。
空腹を満たすために食べたいものを食べたり、眠いときに十分な睡眠を摂ることやセックスにより悦びを感じたりすることなどはだれにでも有る人間の本能な訳です。この本能の中で幸せを感じるのが感性的欲求です。
精神的安定の追求
一方で人によってになりますが、芸術作品や素晴らしい景色などを目にしたときに感じる”快感”もあります。これは本能的な欲求とは違い、精神的安定を求める欲求に繋がっています。
「人によって」とは精神的な成長を意味します。いくら高齢でも精神的な成長が無ければ精神的安定を求める欲求は現れません。逆に青年でも精神的な成長が早ければ精神的安定を求めるようになります。
気付きの第一歩は「嬉しい」・「よかった」と思えること
感性的欲求の追求であろうが精神的安定の追求であろうが「嬉しい」とか「良かった」とかポジティブに物事を考えるようになったり思えることが幸せにつながる第一歩だと思います。
どれだけその感情を日々持続できるかどうかが「幸せを感じる」ことへの入り口になるのです。
バス次郎の経験話しを少しします。
バス次郎が心理学者になる前は会社員でした。と言っても役員待遇でしたのでかなりの高給取でしたので派手な生活をしていました。
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別荘を購入したり高級外車を何台も乗り回したり高級料亭や高級料理店へ通ったり”お金で買える幸せ”はほとんど経験しています。しかし、バス次郎はお金で幸せは買えないことを知りました。たしかにお金を持っていれば”何するにしても”不自由はしません。しかし、いつも何か物足りないのです。それは心が満足していないのです。
お金で買えるものに満足感は得られません。
モノを購入したときだけです。しばらくすれば次に違うモノが欲しくなるのです。
当時のバス次郎は自己開示が出来ていませんでしたから、お金やモノへの執着が激しく”仮面の自尊心”を維持していたのでした。今はバス次郎も心理臨床の道を歩んでいるから言えることですが当時のバス次郎は”自己愛性パーソナリティ障害”への道を歩んでいたのでした。
そんなバス次郎がどうやって日々幸せを感じることが出来るようになったのか?
それは詳しくは『自己肯定が出来ない本当の理由』にも書いていますが「ちょうどよい」とか「ほどほど」を知ることです。つまり「足るを知る」生活をしていく中で幸せを感じるように人間は出来ているのだと思います。
不思議と「足るを知る」生活をしていくと自己開示ができるようになります。自己開示ができれば次のステップである”自己の価値観の向上”にもつながっていくわけです。
以前のバス次郎もそうであったように平和ボケの日本人は今の生活が「当たり前」とか「当然」とか思っています。日々の生活は当たり前ではないのです。
- 日々生かされていることへの感謝が出来るようになります。
- 日々この地球や自然に感謝が出来るようになります。
- 日々健康でいられることへ感謝が出来るようになります。
- 日々両親に感謝が出来るようになります。
- 日々家族と共に一緒に生活できることへ感謝が出来るようになります。
- 日々仕事が出来ることへ感謝が出来るようになります。
- 日々衣服や持ち物に困らず生活出来ることへ感謝できるようになります。
- 日々食べ物に困らず生活出来ることへ感謝が出来るようになります。
- 日々住む処に困らず生活出来ることへ感謝出来るようになります。
- 日々自分の肉体に感謝できるようになります。
- 日々自分の道を歩めることに感謝が出来るようになります。
こういう基本的なことが理解出来なければ「幸せ」は程遠いのです。
バス次郎もそうであったようにお金を持っていたときはこういうことが当たり前のように思っていたし考えてもいませんでした💦😅
日々幸せを感じるために・・・どうする?
バス次郎が取った行動はモノやお金に執着した自分を捨てることが最初の大きな壁でもありました。お金やモノに囲まれた生活は自分自身をダメにすると考え、恩師のアドバイスにより”心の断捨離”を行うためにすべてのモノを処分しました。モノへの執着を無くすことが本当の断捨離なのです。「物事に執着せずに求めない心」が理想ですが中々出来ませんね💦それでもいいのです。気付きが大事なことですからね。
こんなバス次郎でも日々幸せを感じて生かされていることへ感謝しています。
幸せを感じることの先にあるもの
日々幸せを感じることが出来るような人たちは”生きることの意味”を知っている人たちです。”生きることの意味”を知ることが出来れば良い人生を歩むことが可能なのです。
”生きることの意味”を知ることにより心が豊になり不思議とお金にも困らなくなります。こういう生き方が生死(死生)観的に考えれば生死をも超越した魂を向上させること(霊性を高めると言います)につながっているのだと思うのです。
何か特別なことをしなければいけないのではなく人間として人間らしく生きることが人として素晴らしい生き方であり、その生き方が理解できなければ死はもっと理解できないと思うのです。
死を理解するには
生きることの意味を体感し、
それを理解しなければ、
死を理解することはあり得ないのです。
* 「死を理解」するとは、自分自身の死生観(生死観)でもある。
ドイツの哲学者ハイデッカー(1918)
「人間の死は,その人がいかに生きるかということを示す最後のチャンスである」
と述べた。何故なら,死ぬことが理解できなければ,生も理解できない。その死は自分がどのように生きてきたかの証であり,日常生活に現れる死生観,人生観,価値観の有り様を反映しているからである。
引用:丸山久美子. (2004). 死生観の心理学的考察. 聖学院大学論叢, 16(2), 189–218.
今日はこの辺で。
どうぞ、これからもよろしくお願いします。