「スサノヲとアマテラスのウケヒ」をご存知だろうか。イザナギらに追放されたスサノヲがタカアマハラでアマテラスに対して身の潔白を証明するあれである。

 

スサノヲがタカアマハラを征服しに来たわけではない事を証明するためのウケヒとして、神生みを行う訳だが、生んだカミが男だったから潔白とするのが日本書紀、女だったから潔白とするのが古事記、みたいな説明が通俗的である(英語版ウィキのスサノヲに典型的に書いてある)。このウケヒの「証明」と結果の根拠、そもそもの所あやふやにしか書いてないし日本書紀の本文そもそも証明の結果に触れてなくね?とか疑問が山のようだが、そこは一旦目を瞑る(これはこれで多分「正当性」とかが関係しているので面白いかもしれない)。

 

そして古事記の証明の正当性の根拠だが、それはスサノヲのウケヒの後(あと!)の発言である。「我が心清明き故に、我が生めりし子手弱女を得つ」(古事記 p.18、国立国会図書館)「我心清明故。我所生之子得手弱女」(国史大系 7巻 p.25、国立国会図書館)これが生まれてきた子が女だったから、という意味らしい。

 

しかし待って欲しい。読み方間違ってね??という疑問が頭をよぎる。書き下し文でも十分違和感ありありだが、漢文の方を見ると(読み方が間違っている可能性は否定できないが)子供が手弱女を得た、と読める。この事は、ウケヒのカミうみ後にアマテラスが男神がスサノヲの子(スサノヲの持ち物から生まれたので)としており、更に男神の子孫について続いて書いている事とも整合する。

 

そういう訳で古事記がウケヒの証明として女をあげているというのが違和感がすごい。『古事記伝』にでも書いてあったのだろうか。漢文が読めてない可能性も否定できないが、わかる人がいたら教えてください。