前回までは、自然観について書いてきた訳だが、やはり個人的な所感について書いておくべきであろう。

 

まだ理解していない部分も多いだろうが、二三最初に思っている事を書くのも悪くないだろう。自分にとって艮の金神とは「我々の神」「大地の神」である。一見すると罪業(めぐり)などと言って、ただの問題発言のように思えるが、そうではなくて、我々への尊重そして互いへの尊重を叫ぶ神なのであり、「大地への謝罪」、もっとも根源的な愛や罪悪を呼び起こす神なのである。第一に開祖は、おそらく開祖にならなければ写真には残らない多数の一人であって、相当にぞっとする感覚を覚えさせる話である。

 

我々の神、我々の側から出てきた神が全体の神へと繋がっているという感覚が大事なのであって、この感覚はやはり忘れてはなるまい。

 

なので私にとっては、火の雨が降るのも、火の雨に降られた側へと繋がる神に思えてくるのだ。

 

もっともとを正せば、自分の中の一神教性、唯一なる感覚があり、一方で活物へと働きかけてくる機能の複数性がはっきりと顕れており、更には全ての物をあらしめ保たせる神の感覚が常にあったのである。この基準で行ってキリストの神は少し性質が異なり(キリストの聖霊は機能の中心としての神々とは異なる観念である)、そもそもキリスト自体、自分には勝手にトラブルを起こしている人にしか見えずあまり響かない部分がある(なぜ個人を全体の神に繋げようとするのかが謎)。というかキリスト教自体不愉快さを覚える。

 

そういうわけで、「大地への謝罪」を要求する艮の金神の方が100倍ぐらい信用できる。人の揚げ足をとるような不愉快な神を崇む不逞な輩にはなりたくないものである。あゝ惟神霊幸倍坐世。