ハイジャン男は、先週の土曜日にNHKの人気番組のブラタモリを見た。
「北九州市誕生の秘密とは?〜」というテーマで放送された。
1963年に、北九州工業地帯を形成していた、門司、小倉、戸畑、八幡、若松の5つの都市が合併して、九州初の人口100万都市が誕生したのだ。
当時、県庁所在地の福岡市の人口は70万人程度。北九州市は合併によって、まるで飛ぶ鳥を落とすが如く盛り上がっていた。「県庁所在地を北九州によこせ!」と叫んでいたので、その横柄な振る舞いに、子供ながらに私までも含めて福岡市民は皆憤っていたのを覚えている。
それは、ともかく、ブラタモリの内容で驚いたことがあった。元々、八幡市と若松市は、福岡藩に属していたとのこと。タモリは博学だから、知っていたが、江戸時代初期の福岡を治めていた黒田藩と小倉藩を治めていた細川藩とは、犬猿の仲だとのこと。よく、そんな土地柄同士で合併に至ったな!ということであった。
では、なぜ、黒田藩と細川藩とは仲が悪かったのか?
次の資料で分かった。
細川家は、室町時代には管領家の一つで名門である。それに対して、黒田家は備前地方の一介の領主に過ぎず、その差は歴然としていた。長政の父親の官兵衛は、細川幽斎を尊敬し、元々仲は良かったはずであった。
関ヶ原の戦いの戦功により、黒田家は、中津藩主から、筑前一国の大藩主となったわけである。
この長政であるが、ページにあるように、、。
長政は、中津藩から福岡藩に移る際に、年貢を持ち逃げしたというのだ。この問題が尾を引き、小倉藩と黒田藩の間にいくつもの城が出来たようだ。
ダダをこねたのは、細川忠興の方である。江戸幕府に訴訟を起こしたようだ。江戸幕府も弱腰で大名家同士の争い事には口を出したくない。
しかし、この訴訟が少しは功を奏したのか?細川家は、1632年に熊本一国へお国替えを成し遂げることになる。黒田52万石の上を行く、熊本54万石を手に入れることができたのだ。
こうして、福岡と北九州は歴史的にもいろんな因縁のある関係にあったのが、1963年にその境も巻き込んで合併したというわけである。
本日は、その2回目である。その実像に迫れるか?
乞うご期待!
「理不尽な仕打ちの後に式部の実」
ハイジャン男