ハイジャン男は先ほど、国土地理院の地図を見ていて、愕然とした。
博多湾のところに福岡湾と出るのだ!そんな、聞いたことないぞ!いつの間に、博多湾を福岡湾にしたのだ?
これが、福岡と博多の長年の争いでもある。博多という地名は、有史以来、呼ばれて来た地名である。
Wikipediaで調べてみた。
博多は、日本最古の湊であり、古代においては大宰府の外港として機能した。筑紫館(つくしのむろつみ)、迎賓施設である鴻臚館(こうろかん)が置かれた。中世には商港として栄えた。平安時代から鎌倉時代までの地形は現代と大きく異なっていた。遣隋使や遣唐使が派遣される以前から在地の奴国と漢の交流があり、中国や日本の歴史上の文献に見える那の大津の記述などは、そのいにしえの古さを物語る。三津七湊の筆頭でもある。
詳しくは、Wikipediaを参照してほしい、
博多の町は、那珂川の東側に栄えて来た。そして、1600年の関ヶ原の戦いで戦功のあった黒田長政が筑前52万石の領主となり、福岡にやって来たのである。
Wikipediaでこの辺りの事情をおさらいしてみる。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの功により、筑前の一部を領有していた小早川秀秋が備前国岡山藩に移封となった。代わって豊前国中津藩主の黒田長政が、同じく関ヶ原の戦功により、筑前一国一円52万3千余石の大封を与えられたことにより、当藩が成立した。国主、本国持の大名家である。
筑前入府当初の居城は、小早川氏と同じ戦国武将立花鑑載が築城した名島城であったが、手狭であり交通にも不便であったため、慶長6年(1601年)から慶長11年(1606年)までの約6年をかけて、新たに広大な城郭・福岡城(別名:舞鶴城・石城)を築城した。
この辺りの詳しい事情はWikipediaで。
福岡市の定義によれば、志賀島北部勝馬の明神鼻-玄界島-糸島半島北端の西浦崎を結ぶ線を湾の境界とする。また環境省によれば[2]、志賀島明神鼻と糸島西浦崎を結ぶ線を博多湾の海域と定める。
いっぽう、国土地理院発行の地形図では「福岡湾(博多湾)」と併記され、港湾エリアの海域に博多港、湾東部(奥部)側に博多湾、湾西部側に福岡湾との名称が見られる。海上保安庁発行の海図では「福岡湾」の名称が記載され、西戸崎西端(志賀島橋橋台)から能古島北部を経由し今津の碁石鼻を結ぶ線を港界と定め、東(内)側を博多港、西(外)側を福岡湾と記載する。また小戸妙見岬-生の松原-今宿-今津碁石鼻(宝島)-能古島に囲まれた海域には「今津湾」の名称が記載される。
なるほど、このように、博多湾域と福岡湾域を分けているようだ。
市町村の平成の大合併に揺れた時にも、市名をどうするかで揉めたところがたくさんあった。
その第一号の揉め事が福岡市の場合だったかもしれない。
校歌には、博多湾が出て来るところが多いことだろう。地名の歴史、特に海を利用した交易で栄えた博多湾であり、この地名が将来も呼び続けてられるように願いたいものだ。
「後の月強く推したる博多湾」
ハイジャン男
後の世の月もそう言っているに違いない。