加藤司書は、幕末の黒田藩士中老である。
黒田官兵衛を有岡城で助けた加藤重徳の直系である。
その加藤司書の記念碑が西公園の丘の頂上付近にある。
加藤司書についてネットから説明をする。
福岡藩の中老席、天保元年福岡大名町生まれ。筑前勤王党の首領として活躍。海防論を唱導して、福岡藩の海面防備のため荒津山下に台場を築き、大砲を据え付けて外敵に備えた。
また、元治元年の幕府の長州追討では黒田藩の代表として参陣したが、時節の重大事をとき征長軍の解兵を主張し、戦いを止めさせた。慶応元年藩論が一変し、乙丑の変により藩は佐幕派の天下となったため切腹を命ぜられた。享年36才。
昭和4年4月12日、光雲神社裏の展望台付近に銅像が建立された。戦争中の金属応召で姿を消したが、昭和40年10月、銅像の台座の跡に司書の作である黒田節の歌詞「皇御国の武士はいかなる事をが勤むべき兄身にもてる赤心を君と親とに盡すまで」の碑が建てられた。
しかし、この碑の側には桜の木が1本もない。
どうしてなのか?
少しその訳を調べてみたいものだ。
「司書公の記念碑の前なき桜」
ハイジャン男