奄美大島には、田中一村記念美術館がある。



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田中一村のことは、丘ふみ游俳倶楽部の部長の中島葱男さんから教えてもらい知った。

彼のホームページから引用する。



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この春、三月も終わり頃(30/MAR.~OI/APR.)、いつもの同窓会の連中と一緒に奄美大島を巡る旅に出かけた。この旅には何の目的もない。友人達と好きな酒を呑みながら勝手なよもやまの話をする。 年に一度のちょっと贅沢な命の洗濯である。
今年の旅のみんなの楽しみは幻の焼酎「竜宮」を呑み乍ら本場の「島唄」を聞くこと。
その島を誰よりも愛し、絵画一筋に生きた孤高の画家「田中一村」さんにはほんとに申し訳ない。
我ら九大文卒組、奄美のあ・ま・み・だけ、ほんのつまみ食いです。 

「月下村工房」旅日記より



その田中一村については、Wikipediaで紹介しよう。

田中一村(たなか いっそん、1908年7月22日 - 1977年9月11日)は、日本画家である。奄美大島の自然を愛し、その植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描いた。本名は田中孝。

* 1908年 - 栃木県栃木市に生まれる。
* 1926年 - 東京市芝区の芝中学校を卒業する。
* 1926年 - 東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学したが、同年6月に中退。
* 1931年 - それまで描いていた南画と訣別。
* 1938年 - 千葉に暮らす
* 1947年 - 川端龍子主催の青龍展に入選。
* 1953年 - 第9回日展に「松林桂月門人」として出品するが落選(この年12月25日奄美大島が日本に返還される)。
* 1954年 - 第10回日展に出品するが落選。
* 1955年 - 九州・四国・紀州をスケッチ旅行して回る。
* 1957年 - 第42回院展に出品するが落選。
* 1958年 - 第43回院展に出品するが落選。奄美大島に渡る(50歳)。
* 1958年 - 生計を立てるため大島紬の染色工として働き始める。
* 1977年 - 9月11日没。69歳没。
* 2001年 - 奄美に田中一村記念美術館が開館。
1908年、栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれる。父は彫刻家の田中彌吉(号は稲村)。
若くして南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で受賞(天皇賞、もしくは文部大臣賞)。また10代ですでに蕪村や木米などを擬した南画を自在に描き得た。
『大正15年版全国美術家名鑑』には田中米邨(たなかべいそん)の名で登録された。
1926年、東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。同期に東山魁夷、橋本明治らがいる。しかし、自らと父の発病により同年6月に中退。趙之謙や呉昌碩風の南画を描いて一家の生計を立てる。
23歳の時、南画を離れて自らの心のままに描いた日本画「蕗の薹とメダカの図」は後援者には受け入れられなかった。
1947年、「白い花」が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選。このとき初めて一村と名乗る。しかし一村は川端と意見が合わず、青龍社からも離れる。その後、1953年・1954年に第9回・第10回日展、1957年・1958年に第42回・第43回院展に出品するが落選、中央画壇への絶望を深める。
1955年の西日本へのスケッチ旅行が転機となり、奄美への移住を決意する。1958年、奄美大島に渡り大島紬の染色工で生計を立て絵を描き始める。だが、奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま、無名に近い存在で個展も実現しなかった。墓所は満福寺。
没後に南日本新聞やNHKの『日曜美術館』の紹介でその独特の画風が注目を集め、全国巡回展が開催され、一躍脚光を浴びる。南を目指したことから、日本のゴーギャンなどと呼ばれることもある。
鹿児島県は奄美大島北部・笠利町(現・奄美市)の旧空港跡地にある「奄美パーク」の一角に「田中一村記念美術館」を2001年オープンした(館長宮崎緑)。生誕100年にあたる2008年には、奈良県高市郡明日香村の奈良県立万葉文化館1(館長・中西進)で「生誕100年記念特別展 田中一村展―原初へのまなざし―」が開催された。毎年9月11日の命日に「一村忌」が「一村終焉の家」で行われている。一村の絵『奄美の杜』は黒糖焼酎のラベルにもなっている。

「一村の絵より飛び立つ春の鳥」

ハイジャン男