『鳥の写真がブログに出てましたので、ツルの写真を送ってみました。10年ほど前の出水のツルです。
マナズルとナベズルです。(だと思います)。鳴いているのはナベズル、餌を食しているのは両方だと思います。』
Wikipediaで出水の鶴について調べた。
歴史
もともとツルは日本各地の湿地や水田地帯に渡来して越冬しており、江戸時代の薩摩藩領内でも多くの場所でツルが観察されていた。出水平野でツルが観察された最初の記録は1694年(元禄7年)のものであり、当時造成されつつあった海岸沿いの干拓地で発見されている。江戸幕府がツルの保護を呼びかけていたことから薩摩藩も領民にツルの保護を命じ、以降もツルが渡来するようになった。
明治維新によってツルを保護する拠り所がなくなると一転して狩猟の対象とされるようになり、明治中期には乱獲によってついには1羽も渡来しなくなった。1895年(明治28年)に狩猟法が制定され保護されるようになってから再び渡来するようになり、大正から昭和初期にはツルを見物するための鶴見馬車が運行されたり見物所(鶴見亭)がつくられるなど出水平野の名物として定着していった。1923年(大正12年)に開通した鹿児島本線は、当初は出水平野中央部を通り抜ける計画であったが、鳥類学者の内田清之助が鉄道省にツルの保護を訴え渡来地周辺を迂回するルートに変更させている。渡来するツルの数は1919年(大正8年)の調査で150-160羽、1927年(昭和2年)には275羽、1939年(昭和14年)には3908羽と増加していったが、第二次世界大戦中に越冬地周辺に設置された海軍飛行場(出水海軍航空隊)の影響や保護活動の縮小などにより1947年(昭和22年)には275羽まで減少した。
戦後、1952年(昭和27年)3月29日に「鹿児島県のツルおよびその渡来地」として特別天然記念物に指定された。1955年(昭和30年)、当時の防衛庁(後の防衛省)が旧海軍飛行場の再利用を計画したが市民の反対運動にあって断念している。1962年(昭和37年)に「鹿児島県ツル保護会」が結成され、翌1963年には渡来数が千羽を越えた。1976年(昭和51年)に軍事境界線での米韓合同軍事演習が始まってから渡来数が急増し、1992年(平成4年)には1万羽を越えるまでになった。1987年(昭和62年)から「出水ツルマラソン大会」が開催されるようになり、1989年(平成元年)11月1日には「ツル観察センター」が、1995年(平成7年)4月21日には「ツル博物館クレインパークいずみ」がそれぞれ開館し、啓蒙活動や観光の拠点として利用されるようになった。一方でツルが出水平野に集中することによる問題点が指摘されており、2001年(平成13年)から越冬地を西日本各地へ分散させるための調査が進められている。
また、1987年(昭和62年)11月1日には周辺の高尾野町とともに、国指定出水・高尾野鳥獣保護区(集団渡来地)に指定されている(全体で、面積842ha、うち特別保護地区54ha)。
「鶴来る紆余曲折の歴史秘む」
ハイジャン男