「官兵衛を救った男たち」という特別展が、甘木歴史資料館で開かれている。この催しの記念講演会が、開かれた。




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講師は、加藤睦子氏で、ハイジャン男の従兄弟の加藤シオーの夫人である。



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講演会の題目は、

「加藤又左衛門重徳一門と官兵衛、村重との友情」

であった。

加藤睦子さんは、従兄弟の加藤シオーの家の盆の儀式の面白さから、加藤一門の歴史について調べ始めたのだった。

その儀式とは、お盆に加藤家のみんなが、まず北の黒田家に一礼する。さらに、東の伊丹市にあった伊丹城の伊丹一族に一礼する。さらに、南の草野町に居城していた草野一族に向かって一礼する。という伝統的なしきたりのことであった。

睦子さん、加藤重徳一門のことを調べるうちに、いろいろなことが解き明かされていった。加藤シオー、睦子夫妻は、現在、アメリカのサンフランシスコ在住である。取材には、帰国して来る折に行い、13年かかったという。今年は、取材開始から16年目になるとのこと。

加藤重徳は、官兵衛が有岡城に囚われていた時の門番である。

重徳の嫁は、元伊丹城主であった伊丹一族である。伊丹一族は、数奇な運命を辿る。先ずは、信長によっで滅ぼされ、荒木村重の家来となった。

ところが、荒木村重の謀反により、またしても伊丹城後の有岡城を滅ぼされてしまう。

しかし、睦子さんの調べでは、有岡城を信長が取り囲むまえに、伊丹一族は、官兵衛の城である姫路城に逃げ込んでいたというのだ。そして、多くは、官兵衛の家来となって、福岡県に住みつくようになったというのだ。

大河ドラマでは、加藤重徳は、有岡城で討ち死にしたかのような終わり方になっているが、本当はそうではない。最初から、牢獄に居る官兵衛に食事を与えたりしているうちに、官兵衛の魅力に惹かれていき、次男の一成を官兵衛の養子に出すという約束をする間柄になっていたのだ。

黒田一成は、後に、朝倉市の三奈木藩の城主となった。重徳の長男吉成は、黒田本家の家老となり、領地は、三奈木藩の側に与えられたのだ。

重徳の弟の加藤九左衛門は、伊丹城主であった伊丹雅興の弟の永勝の養子になったものの、黒田一成の家老となり、平瀬加藤家九左衛門となり、黒田一成を支えた。この末裔が、従兄弟の加藤シオーになる。加藤家関連年表の写真を貼っておく。


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その平瀬加藤家の領地に、正福寺という浄土真宗の寺があり、その住職は、荒木村重の末裔である。荒木村重の子二人は、草野一家の客分として一時身を寄せていたことが分かっている。それで、草野一族に向かってお盆の一礼があるのか?

官兵衛、村重、重徳との深い絆がこのような関係を朝倉市に作っているのだ。

睦子さんは、荒木村重のことをたいへん褒めていた。優れた武将であり、文化人でもあり、茶の湯を千利休からずっと前から習っていたことを強調していた。

信長の残虐さに失望しての謀反だったのか?

他にも、面白い話をたくさん聞かせてもらった。

当日、会場には、予想の150人をはるかに上回る250人が訪れた。

官兵衛人気のなせる業であろう。

「官兵衛と伊丹一族秋彼岸」

ハイジャン男