昨日、ハイジャン男の教え子の31才になる卒業生のAさんが訪ねて来た。卒業以来だから、8年ぶりだ。

しばし、昔話に花が咲いた。

管理栄養士の国家試験が200問の新出題になって初めての年に試験を受けた。Aさんは、成績も良く、軽く試験に合格したが、ハイジャン男のゼミからは、数名の不合格者を出した。当時は、どのような対策をすれば、試験に合格するか手探りの時であったのだ。

Aさんが、帰ったのちに、彼女が持って来た手土産の袋の中身を見た。



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俳句が書かれた包み。京都の蕪村庵のお菓子のようだ。ハイジャン男が、俳句をすると知ってのことで、この包み?なかなか粋な計らいだと感心した。

「河童の恋する宿や夏の月」

蕪村

蕪村と云えば


「菜の花や月は東に日は西に」

などの名作がある。画家でもあり、大きな風景の句が多い。

Wikipediaで、蕪村の足跡をおさらいしよう。


与謝 蕪村(よさ ぶそん、享保元年(1716年) - 天明3年12月25日(1784年1月17日))は、江戸時代中期の日本の俳人、画家。

本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩「帰去来辞」に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」、「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」、「謝寅(しゃいん)」など複数ある。

摂津国東成郡毛馬村(ひがしなりごおり けまむら)(大阪市都島区毛馬町)に生まれた。だがそれ以上の詳しいことはわかっていない。

20歳の頃江戸に下り早野巴人(はやの はじん〔夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)〕)に師事し俳諧を学ぶ。日本橋石町「時の鐘」辺の師の寓居に住まいした。このときは宰鳥と号していた。俳諧の祖松永貞徳から始まり、俳句を作ることへの強い憧れを見る。しかし江戸の俳壇は低俗化していた。

寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、敬い慕う松尾芭蕉の行脚生活に憧れてその足跡を辿り、僧の姿に身を変えて東北地方を周遊した。絵を宿代の代わりに置いて旅をする。それは、40歳を超えて花開く蕪村の修行時代だった。その際の手記を寛保4年(1744年)に雁宕の娘婿で下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩(さとう ろきゅう)宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。

その後丹後、讃岐などを歴遊し42歳の頃京都に居を構えた。この頃与謝を名乗るようになる。母親が丹後与謝の出身だから名乗ったという説もあるが定かではない。 45歳頃に結婚し一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。死因は従来、重症下痢症と診られていたが、最近の調査で心筋梗塞であったとされている。辞世の句は「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」。墓所は京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)。

蕪村は、京都で没した。従って、京都に蕪村庵と称するお菓子屋さんがあるのは、頷けることだ。

お菓子の「蕪村春秋」とは、あられのセットのようだ。



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京都のお菓子は、品のいいものばかりだ。蕪村のことを偲び、Aさんの益々のご活躍を祈りながら、あられを賞味したいものだ。

「夏の月蕪村を偲びあられ食む」

ハイジャン男