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(4)北九州大会の火ぶた切られる

6月の第4土曜日、日曜日がいよいよ北九州大会であった。長崎県、佐賀県、福岡県、大分県の4県の各6選手24名による戦いで、毎年、会場が変わる。その年は、 大分市営陸上競技場が戦いの場所であった。金曜日の午前中に、楠先生の車-軽自動車で行く者と汽車で行く者に別れて、いざ大分へと向かった。梅雨の真只中で、雨がしとしとと降っていた。私は楠先生の車に乗せてもらって、大分へ向かった。コースは、甘木、日田を通り、湯布院を通って、別府に行き、大分に向かうコースだった。


旅館は、大分陸協が世話してくれた繁華街の旅館であった。しかし、何と、いわゆる温泉マークの連れ込みホテルであった。しかも、主人が留守で閉まっていた。楠先生は烈火のごとく怒り、すぐに宿を変えると言い出した。そんな今から空いている旅館などあるのか?みんな不安になってきた。楠先生は、公衆電話であちこち電話して、 新しい旅館を探した。幸いなことに、西大分の温泉センターを探し出し、そこが急遽の我々の旅館となった。


ここから、大分市の陸上競技場は遠くて、練習に行くには不便であった。近くの大分女子高校のグランドを借りて、練習を行った。雨は止まない 。本格的な練習はできず、軽い調整で済ませることになった。私の走り高跳びは土曜日の第一日目に行われる。緊張していたのか?落ち着いていたのか?よく思い出せない。


高橋英樹が主演のNHKの「鞍馬天狗」が夜放送されていたことは覚えている。当時、五六二三斎は、自分で言うのもおかしいが、高橋英樹に似ていると言われていた。確か、小林俊夫がその時に、「原はほんと高橋英樹に似とうね~。」と言ってくれたような覚えがある。その晩、果たしてよく寝れたか?旅の疲れで、ぐっすり眠ったようであった。


 土曜日の朝が来た。車で競技場に向かう者と西大分駅から汽車で向かう者に別れて、いざ競技場へ向かった。私は高跳びが朝一番に始まるので、車組になった。後輩の吉松浩二も高跳びに出るので、車組であったろう。その日は、朝から雨がどしゃぶり状態だった。こんな中での陸上競技の試合は初めてのことであった。


走り高跳びの最初の高さは1m60から。どしゃぶりで、アンツーカーのグランドはもう水を吸い込むこともできずに、泥沼状態であった。しかし、競技はやらなければならない。1m 60を威勢よく「パスしま~す!」と言う者が多かった。これは、相手を威圧するよい方法なのだ。昨年、唐津でこれをやられて、すっかり気落ちしたことを思い出した。私も大きな声で「パスしま~す!」と言った。次の1m65はそろそろ跳ばなければならない。こんな泥沼状態では、何が起きるかわからないので、記録なしになったら終わりだからである。しかし、雨は益々強くなり、状態はどんどん悪くなっていた。何と、1回目、見事にズルリと滑って、踏み切りができなかった。2回目もまたしても、滑って踏み切れない。3回目にバーを落としたら、記録なしでもうおしまいである。遠くで見ていたキャプテンの小林俊夫は、「原がまたあがっとう!」今年も無理だと思ったそうである。その様子を見ておられた楠先生が、土を杵で固めて跳ぶようにと指示を出してくれた。吉松が土を丁寧に固めてくれた。そのおかげで、3回目 、どうにかクリアすることができた。


次の高さは1m70。一回目は失敗したが、2回目になんとかクリアした。もう、この状態でかなりの失敗者が出て、次の高さに行ける選手は24人中半分くらいになっていたろう。私は、次の1m75が勝負だと思 った。全神経、全知全能をこの1回目にかけた。吉松に杵でグランドをよ~く固めてもらった。見事、1回目に楽々クリアした。嬉しかった!1m75は威勢よく「パスしま~す!」と叫んでいた他の県の有力選手たちも軒並み失敗しはじめた。吉松も1回目失敗した。私は、もうこの高さをクリアしたから、吉松のために、杵で力一杯、 土をたたいて固めてやった。見事2回目成功!二人とも、1m75をクリアした。この高さをクリアした者は5人になっていて、私は遂に、インター杯出場をこの時点で決定していた。


さあ、これからは、1m80の勝負!優勝への争いが待っていた。しかし、そこが五六二三斎の甘いところか!インター杯出場を決めた時点で、少し戦意が失われていたように思える。それに引き換え、後輩の吉松は偉かった。1m80を一回目でクリアした。私は、後は全くいいところがなく、三回とも失敗してしまった 。結局1m80をクリアした者2人で、1m85は全員失敗。勝負は終わった。何と、 吉松浩二が優勝とあいなった。私は1m75を一回目でクリアしたから、3位だろうとふんでいた。ところが、無効試技が一番多かった関係から、1m75をクリアした者の中で最下位の5位であった。しかし、こうして、私のインター杯出場は決定したのである。

 

筑紫丘高校は着々と点数を重ねていった。110mジュニアハードル、走り幅跳びと点数を稼いでいった。2日目には、200mハードルで川口健二が優勝。三段跳びでは、野中次郎が優勝。結局、福岡県大会と同じ点37点を獲得して、ぶっちぎりの優勝であった。ちなみに、2位は佐久間を擁する唐津東高校で28点であった。この大会で、今でも有名な選手と言えば、宗茂、宗猛の双児がいた。そのころから、宗茂の方が少し早かったようだ。1500mで大会記録で優勝した。翌日の新聞には、またしても、筑紫丘優勝の記事が少し大きく書かれていて、にんまりしたことであった。 家に帰り着き、父が殊の外喜んだようだった。(次回へ続く)


「師の叱咤梅雨土砂降りのハイジャンプ」

ハイジャン男
(丘ふみ游俳倶楽部入選句)