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ハイジャン男の家の紅梅、白梅は、ハイジャン男が熊本に出張している間にあっという間に咲き、満開となっていた。写真は、立春の2月4日に撮影したもの。いずれの梅も、樹齢は60年かそれ以上になると思われる。その根拠は、ハイジャン男の父がこの地に住み始めて、今年で満60年に達するからである。

何故、1954年(昭和29年)、福岡市南区のこの地に来ることになったのか?太平洋戦争末期の1943年、当時35歳の父にもいわゆる赤紙が来た。当時の35歳は完全なロートルである。陸軍からの応召であった。陸軍の二等兵であった。出征先は、北支とのこと。久留米の陸軍駐屯地に早速、派遣となり教練を受けたらしい。当時、父は福岡第一師範学校の教育学の教授をしていた。当時、小学校の教員には暗黙のことだろうが、兵役の免除のような不文律があり、地方の素封家の長男は、師範学校へ行き、教員になることが多くあった。しかし、師範学校の教員にまでは、この不文律は適用されないのか?父には赤紙が届いたのだ。もしかしたら、その不文律さえ無くなる程、日本は追い込まれていたというのが、本当の所であろう。事実、久留米駐屯地には、父の教え子が上級の軍人となってたくさん居て、そのおかけで、手荒なことは免れたらしい。

父は、この応召のことを五高の同級生で、大蔵省の役人をしていたH氏に相談した。H氏は、後に大蔵省事務次官、日本開発銀行総裁などに登りつめられた方。H氏は、日本の戦況をよく理解されていて、「北支は危ない。僕らが南方へ出征先を変えてもらえないか?陸軍省や海軍省へ交渉してみよう。」と尽力して下さったらしい。陸軍省と海軍省のバトルの狭間に立ち、H氏は苦労されたのではあるまいか?

とにもかくにも、父は、インドネシアのセレベス島のマカッサルにある国民学校の校長で海軍施政官となって派遣されることが急遽決定した。海軍大尉であった。したがって、軍刀を手にすることが出来る。当時、父は、福岡第一師範の附属小学校の指導主事今で云う校長を兼任していたので、父の出征に際する出発式は、現在の福岡教育大学附属福岡小学校のグランドで盛大に執り行われたとのこと。ハイジャン男は、小学校の同窓会の役員を務めているが、生徒でこの出陣式に出席していたという先輩たちから異口同音に「お父さんの凛々しい姿を今のように思い出す。」と言われたことである。こうして、父は雁ノ巣飛行場から、南方へ飛び立ち、昭和21年に帰還するまで、セレベス島に3年居たことになる。

戦況は日に日に日本に不利となり、福岡市にもB29の空襲の危険が迫っていた。父は、セレベス島から、母に「疎開せよ。」の電報を打ち、母と姉の3人は、父の故郷の三井郡大刀洗へ疎開したのだった。こうして、鳥飼の借家を引き払った母と姉3人は、その後、鳥飼今でいう中央区には住めなかった。戦後、この付近もB29の空襲で、焼け落ちて借家とはいえ住める状態ではなかったからである。疎開は正解であった。

父は、復員後、福岡第一師範学校に復職した。その後、昭和23年に、九州大学の文学部教育学科の専任講師に格下げ人事を飲んで転職した。大学同級生のH教授のたっての懇願に応じたからである。依然、福岡市に家を持つような状況ではなく、父は三井郡から九大まで通勤したり、箱崎に下宿したりして九大勤めをしていた。

父は、同年の昭和23年に助教授に昇進、さらに昭和26年に教授に昇進した。そして、家を探すべく努力したが、今で云う中央区は土地の高騰もあり、適当な土地が見つからずに南区になったのである。父の先輩のフランス語の進藤教授が住んで居られたこともこの地にするきっかけとなったかもしれない。

昭和29年9月にハイジャン男一家は、南区のこの地に引っ越ししてきた。当時、ハイジャン男が2歳だった。姉たちは、南区の田舎の土地とはいえ、さぞかし、カルチャーショックを受けたことだろう。

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「紅白の梅が語れる昭和かな」

ハイジャン男