只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。


「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。

はじめに ↓


「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ攻撃を仕掛けてくる敵方の侵入を防ぐための防衛施設としての役割の他に、いざという時の逃げ道の確保や、城の居住者が城内外を行き来したり、城内における各空間(曲輪)を間仕切りして管理したりする役割もありました。

「城門」の形式は、主に「薬医門」「高麗門」「長屋門」「四脚門」「棟門」「埋門(穴門)」「冠木門」「塀重門」などがありますが、お城毎に色々な名前が付いています。

名前の付け方は、「用途別」「門の通称の呼び名別」があり、更にそれぞれに詳細な名前が付いている場合があります。

「用途別」
-大手門、搦手門、水門、廊下門、不浄門、不明門、正門、表門・裏門、仕切門、番所門、御守殿門

「門の通称の呼び名別」
➀管理番号別に付す ②所在している位置や曲輪を名前に付す ③建っている場所のお城内の方角を付す ④所在している周辺の環境や状況を名前に付す ⑤具体的な用途を名前に付す ⑥門の色や材質を名前に付す ⑦形状の特徴から名前を付す ⑧門の管理者の名前を付す ⑨逸話や伝承から付す など 

これだけ見ても判りづらいと思いますので、今後その都度説明を加えていきます。

また、「大手門」「表門」「正門」等には、既にシリーズ化して終了した「櫓門」が多用されている場合が多いですが、今回の「城門」シリーズでは、「櫓門」は割愛します。

全国の「櫓門」シリーズ ↓

 

いよいよ今回から「姫路城(5)」(兵庫県姫路市の「城門」をお届けします。「姫路城」には多くの「城門」「櫓門」が現存していて殆どが「重要文化財」に指定されています。現在9回に分けて「城門」をお届けしていて、本日は5回目です。「櫓門」は既にシリーズでお届けしていますが、チョッと写真を挿入していきます。

 

「姫路城」の歴史は古く、1333年に「赤松則村」が砦を築いたのが最初といわれ、1346年には「山名持豊」が本格的な城に改修しますが、「応仁・文明の乱」で「赤松家」の一族である「小寺家」の属城となり、その家臣であった「黒田家」が城代となります。

 

「羽柴秀吉」が「織田信長」に命じられた中国攻めでは、1580年に「黒田官兵衛」が秀吉に「姫路城」を献上し、秀吉によって望楼型の三重天守が「姫山」に建てられました。

 

「秀吉」の全国統一時には、「姫路城」の城主が、「秀吉」の縁故である「木下家定」が城主になりました。

 

「関ケ原の合戦」後は、「徳川家康」が西国外様大名の抑えとして「姫路城」に配置したのが、「家康」の女婿(むすめむこ)である「池田輝政」で、この時代に大改修を加えて、天守群は現在の姿になりました。

 

「池田家」が鳥取城へ移封となった後は、譜代大名の「本多忠政」が入り、「三の丸」や「西の丸」が造営されます。

 

この造営にあたっては、「徳川秀忠」の娘であり、「豊臣秀頼」の正妻であった「千姫」が、「大坂夏の陣」で助け出された後に「本多忠政」の息子「忠刻(ただとき)」に嫁いだ時の「化粧料」10万石で、「西の丸」と共に「化粧櫓」等が建築されたと言われています。

 

当城は、西の外様大名を監視する役割を担っていましたので、その後も、譜代・親藩(御家門)の名門大名が入れ替わり立ち替わり入城しました。

 

「家康」の外孫である「松平忠明(ただあきら、奥平)」を皮切りに→「越前松平家」が入りますが「松平直矩」が幼少であったので「村上城」へ移封→替わりに「榊原家」が入城→成人になった「越前松平直矩」が再入封→「本多家」→「榊原家」→「越前松平家」と目まぐるしく替わり、1749年に「酒井家」が入城した後は、幕末・維新まで藩主が定着して統治します。

 

「姫路城」の立地と縄張りは、「姫山」と「鷺(さぎ)山」という小丘陵を中心に築かれた「平山城」です。「姫山」最高峰に「天守群」を建てて。「本丸」から「二の丸」等が階段状に配される「渦郭式」の縄張りです。また「鷺山」の平坦部分には「西の丸」が置かれました。

 

「天守群」がある「天守曲輪」の南側には「本丸=備前丸」を置き、そこから少し下に「井戸曲輪」「腹切り曲輪」そして「上山里曲輪」「乾曲輪」などを配備し、「三国濠」を中心に「二の丸」が拡がります。「三国濠」の西側は「西の丸」となっていています。

 

「三国濠」の南側にある「菱の門」は、以上の曲輪の正面の出入り口で、その南側の広大な敷地が「三の丸」で藩主が住む「御居城」や藩政を執り行う「向御屋敷」等が置かれていました。そして、「三の丸」南端に「大手門」が置かれ、以上の曲輪全体が「内曲輪」と呼ばれていて、その周囲を非常に幅広の「内堀」で取り巻き防御しています。

 

更に「内曲輪」の北・東・南側を「中曲輪」が取巻き侍屋敷が置かれ、総構えとなっている「外曲輪」とは12の門が構えていました。

 

縄張り図(赤丸は下記説明の城門の位置、歴史街道「名城を歩く」からお借りしました) ↓

 

昨日のブログでは、「水ニノ門」を潜ると登城路が緩やかな下り坂になっているお話をしました。その坂の突き当りにある「城門」が「埋門」型式の重文「水三ノ門」です。

 

緩やかな下り坂の先に構える「埋門」型式の重文「水三ノ門」 ↓

 

白壁の下の石垣を刳り貫いた構造ですが、奥側には「本瓦」の「庇」が付いています。「門扉」は片開きで大きな「潜り戸」が設けられています。脇の石垣には「転用石」が使用されているのが目に止まります。

 

「埋門」型式の重文「水三ノ門」 ↓

「埋門」型式の重文「水三ノ門」 ↓

「埋門」型式の重文「水三ノ門」(本瓦の「庇」) ↓


重文「水三ノ門」脇に見る「転用石」 ↓

「水三ノ門」を潜った所から「天守」を見上げる ↓

 

この門を潜るとすぐ左手に折れて石段があります。その石段を上って右側に構えるのがこれまた「埋門」型式の重文「水四ノ門」です。「水三ノ門」から「水四ノ門」にかけては桝形構造になっています。

 

「水三ノ門」よりも石垣と白壁の上部まで刳り貫いた構造で、表側と裏側に「本瓦」の「庇」が付いています。「門扉」はありませんが、元々は付いていたのではないでしょうか。

 

埋門」型式の重文「水四ノ門」 (本瓦の「庇」付き) ↓

埋門」型式の重文「水四ノ門」(こちら側にも本瓦の「庇」、「門扉」がない) ↓

 

「水四ノ門」を抜けて石段を上がるといよいよ「天守群」の真下に到達します。

 

「姫路城櫓門」の詳細は↓からご覧ください。

 

 

 

 

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只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。


「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。

はじめに ↓


「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ攻撃を仕掛けてくる敵方の侵入を防ぐための防衛施設としての役割の他に、いざという時の逃げ道の確保や、城の居住者が城内外を行き来したり、城内における各空間(曲輪)を間仕切りして管理したりする役割もありました。

「城門」の形式は、主に「薬医門」「高麗門」「長屋門」「四脚門」「棟門」「埋門(穴門)」「冠木門」「塀重門」などがありますが、お城毎に色々な名前が付いています。

名前の付け方は、「用途別」「門の通称の呼び名別」があり、更にそれぞれに詳細な名前が付いている場合があります。

「用途別」
-大手門、搦手門、水門、廊下門、不浄門、不明門、正門、表門・裏門、仕切門、番所門、御守殿門

「門の通称の呼び名別」
➀管理番号別に付す ②所在している位置や曲輪を名前に付す ③建っている場所のお城内の方角を付す ④所在している周辺の環境や状況を名前に付す ⑤具体的な用途を名前に付す ⑥門の色や材質を名前に付す ⑦形状の特徴から名前を付す ⑧門の管理者の名前を付す ⑨逸話や伝承から付す など 

これだけ見ても判りづらいと思いますので、今後その都度説明を加えていきます。

また、「大手門」「表門」「正門」等には、既にシリーズ化して終了した「櫓門」が多用されている場合が多いですが、今回の「城門」シリーズでは、「櫓門」は割愛します。

全国の「櫓門」シリーズ ↓

 

いよいよ今回から「姫路城(4)」(兵庫県姫路市の「城門」をお届けします。「姫路城」には多くの「城門」「櫓門」が現存していて殆どが「重要文化財」に指定されています。現在9回に分けて「城門」をお届けしていて、本日は4回目です。「櫓門」は既にシリーズでお届けしていますが、チョッと写真を挿入していきます。

 

「姫路城」の歴史は古く、1333年に「赤松則村」が砦を築いたのが最初といわれ、1346年には「山名持豊」が本格的な城に改修しますが、「応仁・文明の乱」で「赤松家」の一族である「小寺家」の属城となり、その家臣であった「黒田家」が城代となります。

 

「羽柴秀吉」が「織田信長」に命じられた中国攻めでは、1580年に「黒田官兵衛」が秀吉に「姫路城」を献上し、秀吉によって望楼型の三重天守が「姫山」に建てられました。

 

「秀吉」の全国統一時には、「姫路城」の城主が、「秀吉」の縁故である「木下家定」が城主になりました。

 

「関ケ原の合戦」後は、「徳川家康」が西国外様大名の抑えとして「姫路城」に配置したのが、「家康」の女婿(むすめむこ)である「池田輝政」で、この時代に大改修を加えて、天守群は現在の姿になりました。

 

「池田家」が鳥取城へ移封となった後は、譜代大名の「本多忠政」が入り、「三の丸」や「西の丸」が造営されます。

 

この造営にあたっては、「徳川秀忠」の娘であり、「豊臣秀頼」の正妻であった「千姫」が、「大坂夏の陣」で助け出された後に「本多忠政」の息子「忠刻(ただとき)」に嫁いだ時の「化粧料」10万石で、「西の丸」と共に「化粧櫓」等が建築されたと言われています。

 

当城は、西の外様大名を監視する役割を担っていましたので、その後も、譜代・親藩(御家門)の名門大名が入れ替わり立ち替わり入城しました。

 

「家康」の外孫である「松平忠明(ただあきら、奥平)」を皮切りに→「越前松平家」が入りますが「松平直矩」が幼少であったので「村上城」へ移封→替わりに「榊原家」が入城→成人になった「越前松平直矩」が再入封→「本多家」→「榊原家」→「越前松平家」と目まぐるしく替わり、1749年に「酒井家」が入城した後は、幕末・維新まで藩主が定着して統治します。

 

「姫路城」の立地と縄張りは、「姫山」と「鷺(さぎ)山」という小丘陵を中心に築かれた「平山城」です。「姫山」最高峰に「天守群」を建てて。「本丸」から「二の丸」等が階段状に配される「渦郭式」の縄張りです。また「鷺山」の平坦部分には「西の丸」が置かれました。

 

「天守群」がある「天守曲輪」の南側には「本丸=備前丸」を置き、そこから少し下に「井戸曲輪」「腹切り曲輪」そして「上山里曲輪」「乾曲輪」などを配備し、「三国濠」を中心に「二の丸」が拡がります。「三国濠」の西側は「西の丸」となっていています。

 

「三国濠」の南側にある「菱の門」は、以上の曲輪の正面の出入り口で、その南側の広大な敷地が「三の丸」で藩主が住む「御居城」や藩政を執り行う「向御屋敷」等が置かれていました。そして、「三の丸」南端に「大手門」が置かれ、以上の曲輪全体が「内曲輪」と呼ばれていて、その周囲を非常に幅広の「内堀」で取り巻き防御しています。

 

更に「内曲輪」の北・東・南側を「中曲輪」が取巻き侍屋敷が置かれ、総構えとなっている「外曲輪」とは12の門が構えていました。

 

縄張り図(赤丸は下記説明の城門の位置、歴史街道「名城を歩く」からお借りしました) ↓

 

前回のブログで「ほノ門」を潜って「天守曲輪」内に入ってきました。「天守群」へは、真直ぐ「渡櫓」沿いに進むか(現在は立入禁止エリア)、右手に曲がり「筑地塀(油塀)」脇の「水一ノ門」に進むかの2通りですので、本日は右手に曲がるコースを取ります。

 

「棟門」型式の重文「水一の門」は、「筑地塀」と「天守台」に挟まれて建ちます。

 

ここから「水一ノ門〜水六ノ門」まで続きますが、「備前丸」等にある「井戸」から汲み上げた水を運ぶルートに施された門ですjのでこの様な名前がついたとも謂われています。

 

屋根は「本瓦葺き」で、「門扉」には筋金が貼られ「潜り戸」を設けています。「門扉」を開けた時に雨風から守る為に「高麗門」のように上部にカバーが施されています。

 

「筑地塀(油塀)」脇の重文「水一ノ門」 ↓

「棟門」型式の重文「水一の門」 ↓

「棟門」型式の重文「水一の門」 ↓

 

次に構えるのが「棟門」型式の重文「水二ノ門」で、こちらは両端を「ハの櫓」と「天守台」に支えられています。

 

「水二ノ門」も「水一ノ門」と同様に、屋根は「本瓦葺き」で、「門扉」には筋金が貼られ「潜り戸」を設けています。「門扉」を開けた時に雨風から守る為に「高麗門」のように上部にカバーが施されています。

 

「水ニノ門」を潜ると、少し広い場所に出てルートは真直ぐに「水三ノ門」へ向かいますが、緩やかな下り坂になっています。これは、攻めてきた者が下り道を見て「元の場所に戻って行くのでは・・・」という錯覚を起こさせるためにこのような仕掛けをしていると謂われています。

 

「棟門」型式の重文「水二ノ門」 ↓

「棟門」型式の重文「水二ノ門」(「門扉」のカバーが付く) ↓

「棟門」型式の重文「水二ノ門」(登城路が「水三の門」に向かって下っている) ↓

「棟門」型式の重文「水二ノ門」 (左は「ハの櫓)↓

「姫路城櫓門」の詳細は↓からご覧ください。

 

 

 

 

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只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。


「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。

はじめに ↓


「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ攻撃を仕掛けてくる敵方の侵入を防ぐための防衛施設としての役割の他に、いざという時の逃げ道の確保や、城の居住者が城内外を行き来したり、城内における各空間(曲輪)を間仕切りして管理したりする役割もありました。

「城門」の形式は、主に「薬医門」「高麗門」「長屋門」「四脚門」「棟門」「埋門(穴門)」「冠木門」「塀重門」などがありますが、お城毎に色々な名前が付いています。

名前の付け方は、「用途別」「門の通称の呼び名別」があり、更にそれぞれに詳細な名前が付いている場合があります。

「用途別」
-大手門、搦手門、水門、廊下門、不浄門、不明門、正門、表門・裏門、仕切門、番所門、御守殿門

「門の通称の呼び名別」
➀管理番号別に付す ②所在している位置や曲輪を名前に付す ③建っている場所のお城内の方角を付す ④所在している周辺の環境や状況を名前に付す ⑤具体的な用途を名前に付す ⑥門の色や材質を名前に付す ⑦形状の特徴から名前を付す ⑧門の管理者の名前を付す ⑨逸話や伝承から付す など 

これだけ見ても判りづらいと思いますので、今後その都度説明を加えていきます。

また、「大手門」「表門」「正門」等には、既にシリーズ化して終了した「櫓門」が多用されている場合が多いですが、今回の「城門」シリーズでは、「櫓門」は割愛します。

全国の「櫓門」シリーズ ↓

 

いよいよ今回から「姫路城(3)」(兵庫県姫路市の「城門」をお届けします。「姫路城」には多くの「城門」「櫓門」が現存していて殆どが「重要文化財」に指定されています。現在9回に分けて「城門」をお届けしていて、本日が3回目です。「櫓門」は既にシリーズでお届けしていますが、チョッと写真を挿入していきます。

 

「姫路城」の歴史は古く、1333年に「赤松則村」が砦を築いたのが最初といわれ、1346年には「山名持豊」が本格的な城に改修しますが、「応仁・文明の乱」で「赤松家」の一族である「小寺家」の属城となり、その家臣であった「黒田家」が城代となります。

 

「羽柴秀吉」が「織田信長」に命じられた中国攻めでは、1580年に「黒田官兵衛」が秀吉に「姫路城」を献上し、秀吉によって望楼型の三重天守が「姫山」に建てられました。

 

「秀吉」の全国統一時には、「姫路城」の城主が、「秀吉」の縁故である「木下家定」が城主になりました。

 

「関ケ原の合戦」後は、「徳川家康」が西国外様大名の抑えとして「姫路城」に配置したのが、「家康」の女婿(むすめむこ)である「池田輝政」で、この時代に大改修を加えて、天守群は現在の姿になりました。

 

「池田家」が鳥取城へ移封となった後は、譜代大名の「本多忠政」が入り、「三の丸」や「西の丸」が造営されます。

 

この造営にあたっては、「徳川秀忠」の娘であり、「豊臣秀頼」の正妻であった「千姫」が、「大坂夏の陣」で助け出された後に「本多忠政」の息子「忠刻(ただとき)」に嫁いだ時の「化粧料」10万石で、「西の丸」と共に「化粧櫓」等が建築されたと言われています。

 

当城は、西の外様大名を監視する役割を担っていましたので、その後も、譜代・親藩(御家門)の名門大名が入れ替わり立ち替わり入城しました。

 

「家康」の外孫である「松平忠明(ただあきら、奥平)」を皮切りに→「越前松平家」が入りますが「松平直矩」が幼少であったので「村上城」へ移封→替わりに「榊原家」が入城→成人になった「越前松平直矩」が再入封→「本多家」→「榊原家」→「越前松平家」と目まぐるしく替わり、1749年に「酒井家」が入城した後は、幕末・維新まで藩主が定着して統治します。

 

「姫路城」の立地と縄張りは、「姫山」と「鷺(さぎ)山」という小丘陵を中心に築かれた「平山城」です。「姫山」最高峰に「天守群」を建てて。「本丸」から「二の丸」等が階段状に配される「渦郭式」の縄張りです。また「鷺山」の平坦部分には「西の丸」が置かれました。

 

「天守群」がある「天守曲輪」の南側には「本丸=備前丸」を置き、そこから少し下に「井戸曲輪」「腹切り曲輪」そして「上山里曲輪」「乾曲輪」などを配備し、「三国濠」を中心に「二の丸」が拡がります。「三国濠」の西側は「西の丸」となっていています。

 

「三国濠」の南側にある「菱の門」は、以上の曲輪の正面の出入り口で、その南側の広大な敷地が「三の丸」で藩主が住む「御居城」や藩政を執り行う「向御屋敷」等が置かれていました。そして、「三の丸」南端に「大手門」が置かれ、以上の曲輪全体が「内曲輪」と呼ばれていて、その周囲を非常に幅広の「内堀」で取り巻き防御しています。

 

更に「内曲輪」の北・東・南側を「中曲輪」が取巻き侍屋敷が置かれ、総構えとなっている「外曲輪」とは12の門が構えていました。

 

縄張り図(赤丸は下記説明の城門の位置、歴史街道「名城を歩く」からお借りしました) ↓

 

それでは、「にノ門」を潜って少し広めの曲輪を進むと「土塀」があり、その下の石垣に穴があいている「埋門」型式の「ほノ門」が構えます。一気に間口が狭くなるので攻めてはここで大渋滞を起こすことになり、それを潜った場所には大勢の撃ち手が控えていて攻め手をここで攻撃ができます。抜けた側には、庇瓦屋根が付いています。

 

「埋門」型式の「ほノ門」(右に「築地塀」) ↓

「埋門」型式の「ほノ門」(右に「築地塀」) ↓

「埋門」型式の「ほノ門」(庇瓦屋根が見える)と「築地塀」 ↓

 

これを潜る右手には「羽柴秀吉」時代に築かれたという「築地塀」が建っていて、その脇に「水一門」が建ち「天守」方向へ向かう登城になりますが、この3回目のブログでは城内にある「埋門」型式の門を先にご紹介します。


2つ目は、この場所から「天守群」を挟んで東側に位置する位置に建つ重文「帯の櫓」から「腹切丸」跡へ下りる石段途中にある「埋門」です。名称は付いていませんが、「帯の櫓」台石垣に穴が空いていて門形式になっています。

 

重文「帯の櫓」から「腹切丸」跡へ下りる石段途中にある「埋門」 ↓

重文「帯の櫓」から「腹切丸」跡へ下りる石段途中にある「埋門」 ↓

重文「帯の櫓」台石垣の中に開く「埋門」(「腹切丸」跡から見上げる、現在この場所は閉鎖中) ↓

 

3つ目は、「上山里」曲輪から「ぬノ門」を抜けて「二の丸」へ入りますが、真直ぐ「控塀」沿いに進まずに、Uターンして石段を下りた所に「埋門」型式の「るノ門」があります。

 

「るノ門」へ下りる石段には「刻印」が見られ、門両脇には「石棺」が積まれていて、「門扉」の礎石も残っています。

 

石段を下りた所に「埋門」型式の「るノ門」 ↓

「埋門」型式の「るノ門」に降りる石段に「刻印」 ↓

「るノ門」脇に積まれた「石棺」 ↓

「るノ門」脇に積まれた「石棺」 ↓

「るノ門」の「礎石」 ↓

埋門」型式の「るノ門」 ↓

 

そこを潜ると、「三国濠」そして最初にスタートした「菱ノ門」内側に出てきます。

 

「姫路城櫓門」は↓からご覧ください。

 

 

 

 

 

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「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。

はじめに ↓


「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ攻撃を仕掛けてくる敵方の侵入を防ぐための防衛施設としての役割の他に、いざという時の逃げ道の確保や、城の居住者が城内外を行き来したり、城内における各空間(曲輪)を間仕切りして管理したりする役割もありました。

「城門」の形式は、主に「薬医門」「高麗門」「長屋門」「四脚門」「棟門」「埋門(穴門)」「冠木門」「塀重門」などがありますが、お城毎に色々な名前が付いています。

名前の付け方は、「用途別」「門の通称の呼び名別」があり、更にそれぞれに詳細な名前が付いている場合があります。

「用途別」
-大手門、搦手門、水門、廊下門、不浄門、不明門、正門、表門・裏門、仕切門、番所門、御守殿門

「門の通称の呼び名別」
➀管理番号別に付す ②所在している位置や曲輪を名前に付す ③建っている場所のお城内の方角を付す ④所在している周辺の環境や状況を名前に付す ⑤具体的な用途を名前に付す ⑥門の色や材質を名前に付す ⑦形状の特徴から名前を付す ⑧門の管理者の名前を付す ⑨逸話や伝承から付す など 

これだけ見ても判りづらいと思いますので、今後その都度説明を加えていきます。

また、「大手門」「表門」「正門」等には、既にシリーズ化して終了した「櫓門」が多用されている場合が多いですが、今回の「城門」シリーズでは、「櫓門」は割愛します。

全国の「櫓門」シリーズ ↓

 

いよいよ今回から「姫路城(2)」(兵庫県姫路市の「城門」をお届けします。「姫路城」には多くの「城門」「櫓門」が現存していて殆どが「重要文化財」に指定されています。従いまして9回に分けて「城門」をお届けし、今回は2回目です。「櫓門」は既に「櫓門シリーズ」でお届けしていますが、チョッと写真を挿入していきます。

 

「姫路城」の歴史は古く、1333年に「赤松則村」が砦を築いたのが最初といわれ、1346年には「山名持豊」が本格的な城に改修しますが、「応仁・文明の乱」で「赤松家」の一族である「小寺家」の属城となり、その家臣であった「黒田家」が城代となります。

 

「羽柴秀吉」が「織田信長」に命じられた中国攻めでは、1580年に「黒田官兵衛」が秀吉に「姫路城」を献上し、秀吉によって望楼型の三重天守が「姫山」に建てられました。

 

「秀吉」の全国統一時には、「姫路城」の城主が、「秀吉」の縁故である「木下家定」が城主になりました。

 

「関ケ原の合戦」後は、「徳川家康」が西国外様大名の抑えとして「姫路城」に配置したのが、「家康」の女婿(むすめむこ)である「池田輝政」で、この時代に大改修を加えて、天守群は現在の姿になりました。

 

「池田家」が鳥取城へ移封となった後は、譜代大名の「本多忠政」が入り、「三の丸」や「西の丸」が造営されます。

 

この造営にあたっては、「徳川秀忠」の娘であり、「豊臣秀頼」の正妻であった「千姫」が、「大坂夏の陣」で助け出された後に「本多忠政」の息子「忠刻(ただとき)」に嫁いだ時の「化粧料」10万石で、「西の丸」と共に「化粧櫓」等が建築されたと言われています。

 

当城は、西の外様大名を監視する役割を担っていましたので、その後も、譜代・親藩(御家門)の名門大名が入れ替わり立ち替わり入城しました。

 

「家康」の外孫である「松平忠明(ただあきら、奥平)」を皮切りに→「越前松平家」が入りますが「松平直矩」が幼少であったので「村上城」へ移封→替わりに「榊原家」が入城→成人になった「越前松平直矩」が再入封→「本多家」→「榊原家」→「越前松平家」と目まぐるしく替わり、1749年に「酒井家」が入城した後は、幕末・維新まで藩主が定着して統治します。

 

「姫路城」の立地と縄張りは、「姫山」と「鷺(さぎ)山」という小丘陵を中心に築かれた「平山城」です。「姫山」最高峰に「天守群」を建てて。「本丸」から「二の丸」等が階段状に配される「渦郭式」の縄張りです。また「鷺山」の平坦部分には「西の丸」が置かれました。

 

「天守群」がある「天守曲輪」の南側には「本丸=備前丸」を置き、そこから少し下に「井戸曲輪」「腹切り曲輪」そして「上山里曲輪」「乾曲輪」などを配備し、「三国濠」を中心に「二の丸」が拡がります。「三国濠」の西側は「西の丸」となっていています。

 

「三国濠」の南側にある「菱ノ門」は、以上の曲輪の正面の出入り口で、その南側の広大な敷地が「三の丸」で藩主が住む「御居城」や藩政を執り行う「向御屋敷」等が置かれていました。そして、「三の丸」南端に「大手門」が置かれ、以上の曲輪全体が「内曲輪」と呼ばれていて、その周囲を非常に幅広の「内堀」で取り巻き防御しています。

 

更に「内曲輪」の北・東・南側を「中曲輪」が取巻き侍屋敷が置かれ、総構えとなっている「外曲輪」とは12の門が構えていました。

 

縄張り図(赤丸は下記城門の位置、歴史街道「名城を歩く」からお借りしました) ↓

 

本日は、「櫓門」型式の重文「菱ノ門」内の「城門」を順番に紹介していきます。

 

「菱ノ門」から右手に「三国濠」を見ながら真直ぐに進むと「高麗門」型式の重文「いノ門」が出迎えます。

 

重文「いノ門」から重文「菱ノ門」を見る ↓

 

当門は、両脇が石垣によって支えられていて「門扉」との間には「板塀」になっています。屋根は「本瓦葺き」で「丸瓦」や「滴水瓦」には、城主だった藩主の「家紋」(池田家の「揚羽蝶」、本多家の「立ち葵」、木下家の「桐」など)が見られます。修復した時の藩主の家紋が付けられたのでしょう。

 

「門扉」や「柱」には「筋金」が貼られていて、「門扉」には「潜り戸」が備わっています。

 

「高麗門」型式の重文「いノ門」 ↓

「高麗門」型式の重文「いノ門」 ↓

重文「いノ門」の瓦に池田家の「揚羽蝶」、本多家の「立ち葵」、木下家の「桐」などが見られる ↓ ↓

 

次に斜め前には「高麗門」型式の重文「ろノ門」が構えます。「いノ門」と同形式の「城門」で両脇を石垣で支えていますが、こちらの方が「門扉」と「石垣」の間が長いので「板塀」も長くなっています。

 

「屋根」や「門扉」や「柱」は、「いノ門」とほぼ同じになっています。

 

「高麗門」型式の重文「ろノ門」 ↓

「高麗門」型式の重文「ろノ門」 ↓

「高麗門」型式の重文「ろノ門」(板塀が長い) ↓

重文「ろノ門」の瓦に池田家の「揚羽蝶」 ↓

 

「ろノ門」を潜ると左へ折れる桝形になっていて、更に右折れして緩やかな登城路を「土塀」沿いに上がって行くと、その突き当りに櫓門型式の重文「はノ門」が構えます。

 

櫓門型式の重文「はノ門」 ↓

 

「はノ門」を潜ると少し広めの曲輪に出て「天守群」に向かって進みますが、正面の「本丸」石垣に突当ると、ヘアピンコースで緩やかな坂道を進み、櫓門の重文「にノ門」の中を潜ることになります。

 

櫓門型式の重文「にノ門」 ↓

「姫路城櫓門」の詳細は↓からご覧ください。

 

 

 

 

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只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。


「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。

はじめに ↓


「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ攻撃を仕掛けてくる敵方の侵入を防ぐための防衛施設としての役割の他に、いざという時の逃げ道の確保や、城の居住者が城内外を行き来したり、城内における各空間(曲輪)を間仕切りして管理したりする役割もありました。

「城門」の形式は、主に「薬医門」「高麗門」「長屋門」「四脚門」「棟門」「埋門(穴門)」「冠木門」「塀重門」などがありますが、お城毎に色々な名前が付いています。

名前の付け方は、「用途別」「門の通称の呼び名別」があり、更にそれぞれに詳細な名前が付いている場合があります。

「用途別」
-大手門、搦手門、水門、廊下門、不浄門、不明門、正門、表門・裏門、仕切門、番所門、御守殿門

「門の通称の呼び名別」
➀管理番号別に付す ②所在している位置や曲輪を名前に付す ③建っている場所のお城内の方角を付す ④所在している周辺の環境や状況を名前に付す ⑤具体的な用途を名前に付す ⑥門の色や材質を名前に付す ⑦形状の特徴から名前を付す ⑧門の管理者の名前を付す ⑨逸話や伝承から付す など 

これだけ見ても判りづらいと思いますので、今後その都度説明を加えていきます。

また、「大手門」「表門」「正門」等には、既にシリーズ化して終了した「櫓門」が多用されている場合が多いですが、今回の「城門」シリーズでは、「櫓門」は割愛します。

全国の「櫓門」シリーズ ↓

 

いよいよ今回から「姫路城(1)」(兵庫県姫路市の「城門」をお届けします。「姫路城」には多くの「城門」「櫓門」が現存していて殆どが「重要文化財」に指定されています。従いまして9回に分けて「城門」をお届けしたいと思います。「櫓門」は既に「櫓門シリーズ」でお届けしていますが、チョッと写真を挿入していきます。

 

「姫路城」の歴史は古く、1333年に「赤松則村」が砦を築いたのが最初といわれ、1346年には「山名持豊」が本格的な城に改修しますが、「応仁・文明の乱」で「赤松家」の一族である「小寺家」の属城となり、その家臣であった「黒田家」が城代となります。

 

「羽柴秀吉」が「織田信長」に命じられた中国攻めでは、1580年に「黒田官兵衛」が秀吉に「姫路城」を献上し、秀吉によって望楼型の三重天守が「姫山」に建てられました。

 

「秀吉」の全国統一時には、「姫路城」の城主が、「秀吉」の縁故である「木下家定」が城主になりました。

 

「関ケ原の合戦」後は、「徳川家康」が西国外様大名の抑えとして「姫路城」に配置したのが、「家康」の女婿(むすめむこ)である「池田輝政」で、この時代に大改修を加えて、天守群は現在の姿になりました。

 

「池田家」が鳥取城へ移封となった後は、譜代大名の「本多忠政」が入り、「三の丸」や「西の丸」が造営されます。

 

この造営にあたっては、「徳川秀忠」の娘であり、「豊臣秀頼」の正妻であった「千姫」が、「大坂夏の陣」で助け出された後に「本多忠政」の息子「忠刻(ただとき)」に嫁いだ時の「化粧料」10万石で、「西の丸」と共に「化粧櫓」等が建築されたと言われています。

 

当城は、西の外様大名を監視する役割を担っていましたので、その後も、譜代・親藩(御家門)の名門大名が入れ替わり立ち替わり入城しました。

 

「家康」の外孫である「松平忠明(ただあきら、奥平)」を皮切りに→「越前松平家」が入りますが「松平直矩」が幼少であったので「村上城」へ移封→替わりに「榊原家」が入城→成人になった「越前松平直矩」が再入封→「本多家」→「榊原家」→「越前松平家」と目まぐるしく替わり、1749年に「酒井家」が入城した後は、幕末・維新まで藩主が定着して統治します。

 

「姫路城」の立地と縄張りは、「姫山」と「鷺(さぎ)山」という小丘陵を中心に築かれた「平山城」です。「姫山」最高峰に「天守群」を建てて。「本丸」から「二の丸」等が階段状に配される「渦郭式」の縄張りです。また「鷺山」の平坦部分には「西の丸」が置かれました。

 

「天守群」がある「天守曲輪」の南側には「本丸=備前丸」を置き、そこから少し下に「井戸曲輪」「腹切り曲輪」そして「上山里曲輪」「乾曲輪」などを配備し、「三国濠」を中心に「二の丸」が拡がります。「三国濠」の西側は「西の丸」となっていています。

 

「三国濠」の南側にある「菱ノ門」は、以上の曲輪の正面の出入り口で、その南側の広大な敷地が「三の丸」で藩主が住む「御居城」や藩政を執り行う「向御屋敷」等が置かれていました。そして、「三の丸」南端に「大手門」が置かれ、以上の曲輪全体が「内曲輪」と呼ばれていて、その周囲を非常に幅広の「内堀」で取り巻き防御しています。

 

更に「内曲輪」の北・東・南側を「中曲輪」が取巻き侍屋敷が置かれ、総構えとなっている「外曲輪」とは12の門が構えていました。

 

縄張り図(城内に掲出、赤丸は「大手門」) ↓

 

それでは、「姫路城」の「城門」を巡って行きたいと思います。

 

前述したように、「内曲輪」の南入口には巨大な「高麗門」型式の復元「大手門」が建ちます。今回紹介していく「城門」で唯一復元された門です。

 

「内堀」を跨ぐ復元「桜門」の奥に建っていて、屋根は「本瓦葺き」で、「門扉」には縦筋の鉄板が貼られていていかにも堅固です。また片方には「潜り戸」が設けられています。

 

面白い所では、「大手門」の向かって左側の石垣の上部には「斧」の様な「刻印」が刻まれているのが目に付きます。

 

「大手門」を潜ると広大な「三の丸」が現れますが、その北西奥方向に「櫓門」型式の「菱ノ門」(重文)が見えますので、次回のブログからは「菱ノ門」内の「城門」を順番に紹介していきます。

 

国宝「天守群」と「高麗門」型式の復元「大手門」 ↓

復元「桜門」と「高麗門」型式の復元「大手門」 ↓

復元「桜門」と「高麗門」型式の復元「大手門」 ↓

「高麗門」型式の復元「大手門」(「門扉」の筋金が目立つ) ↓

「高麗門」型式の復元「大手門」(「潜り戸」が見える) ↓

「大手門」前のコスプレ隊 ↓

「大手門」の向かって左側の石垣の上部に「斧」の様な「刻印」 ↓

「高麗門」型式の復元「大手門」(「三の丸」側から) ↓

「櫓門」の「菱ノ門」(この内側から「主郭部」) ↓

「姫路城櫓門」は↓からご覧ください。

 

 

 

 

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只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。


「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。

はじめに ↓


「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ攻撃を仕掛けてくる敵方の侵入を防ぐための防衛施設としての役割の他に、いざという時の逃げ道の確保や、城の居住者が城内外を行き来したり、城内における各空間(曲輪)を間仕切りして管理したりする役割もありました。

「城門」の形式は、主に「薬医門」「高麗門」「長屋門」「四脚門」「棟門」「埋門(穴門)」「冠木門」「塀重門」などがありますが、お城毎に色々な名前が付いています。

名前の付け方は、「用途別」「門の通称の呼び名別」があり、更にそれぞれに詳細な名前が付いている場合があります。

「用途別」
-大手門、搦手門、水門、廊下門、不浄門、不明門、正門、表門・裏門、仕切門、番所門、御守殿門

「門の通称の呼び名別」
➀管理番号別に付す ②所在している位置や曲輪を名前に付す ③建っている場所のお城内の方角を付す ④所在している周辺の環境や状況を名前に付す ⑤具体的な用途を名前に付す ⑥門の色や材質を名前に付す ⑦形状の特徴から名前を付す ⑧門の管理者の名前を付す ⑨逸話や伝承から付す など 

これだけ見ても判りづらいと思いますので、今後その都度説明を加えていきます。

また、「大手門」「表門」「正門」等には、既にシリーズ化して終了した「櫓門」が多用されている場合が多いですが、今回の「城門」シリーズでは、「櫓門」は割愛します。

全国の「櫓門」シリーズ ↓

 

今回は「赤穂城(後編)」(兵庫県赤穂市の「城門」をお届けしますが、2回に分けてお届けしています。

 

「江戸城」の「松の廊下」で「吉良上野介」に対して刃傷を起こし「忠臣蔵」の原因を作った「浅野内匠頭(長矩)」の二代前、所謂祖父である「浅野長直」が1645年に、「池田家」2代の後に赤穂の地に入封して城づくりを進めて1661年に完成したのが「赤穂城」です。

 

この時代の新たな築城は非常に珍しいのですが、「長直」は国替えの際に、当時の将軍「徳川家光」から内々に築城許可を得ていたようでした。そして、近世軍学を反映した星型に近い曲輪を導入させたものでした。

 

しかし前述のように、1701年に「長矩」の江戸城に於ける刃傷事件で切腹、「浅野家」はお家断絶となって「赤穂城」は、「脇坂安照」の家中の者が在番となりました。

 

その後は、「永井家」1代、1706年からは「森家」2万石のお城として、幕末・維新まで続きました。

 

赤穂城」の立地と縄張りは、海岸沿いに「甲州流」や「山鹿流」の近世軍学に沿って築かれ、星形に似た曲輪で「横矢掛かり」を多用し、「輪郭式」と「梯郭式」を併用した「平城」であり「海城」でした。

 

現在の「千種川」の三角州の先端の砂州上に築かれその形内に展開されています。「本丸」は星形に近い多角形で周囲を石垣と堀で囲われています。「本丸」の南東部に「天守台」が築かれましたが「天守」は置かずに石垣で築かれた本丸城壁には、門が3基、櫓を1基を配備する他に、隅角には櫓台状の石垣の上に土塀を築いた「横矢桝形」を置いて、横から横矢を掛けるようにしていました。

 

「二の丸」は、「本丸」を輪郭式に取り囲む曲輪で門3基、櫓5基を置くとともに、円環状の平面である広大な曲輪内を石垣と土塀の仕切によって南北二つに区画して防衛機能を固めていました。

 

また「二の丸」の半分が海に面していたので船着場の「雁木」等の備えも有りました。

 

「三の丸」は、「二の丸」北側に配置され海部分を除く曲輪外周には石垣を設けて城下町との区切りとしていました。「大手門」は「三の丸」の北側に設けられ、右折れの「内桝形」で高麗門と櫓門と出桝形形成をしていました。

 

縄張り絵図(赤丸は復元城門、緑丸は他所へ移築現存城門、橙丸は移築武家屋敷門) ↓

 

本日は「大手門」から見ていきます。「高麗門」型式の復元「大手門」が「大手橋」の奥に建ちます。「大手門」は「内枡形」になっていて内側には「櫓門」が建っていましたが復元はされていません。「高麗門」の方は1955年(昭和30年)という早い時期に復元されました。

 

屋根は「本瓦葺き」で、桝形の正面には「鏡石」を設け右折れで「櫓門」に入って行きます。

 

「高麗門」型式の復元「大手門」と「大手橋」 ↓

「高麗門」型式の復元「大手門」 ↓

復元「大手門」桝形内の「鏡石」 ↓

「高麗門」型式の復元「大手門」 ↓

 

「大手門」の「櫓門」台を左に曲がると右斜め前に「長屋門」形式の「大石内蔵助邸長屋門」が現存しています。城門ではありませんが、城内の「屋敷門」として紹介します。

 

屋根は「入母屋造り」で「本瓦葺き」、外壁は「下見板張り」で真ん中に門部分があり「出格子」窓を設け、「門扉」両脇には「潜り戸」を備えています。

 

「長屋門」形式の「大石内蔵助邸長屋門」が現存 ↓

「長屋門」形式の「大石内蔵助邸長屋門」が現存 ↓

 

また、道を挟んで斜め前には「長屋門」型式の「金堂源八宅長屋門」が現存しています。18世紀以降に建替えられたようですが当時は長大な長屋門だったそうです。

 

「源八」は千石番頭の重職を務め、妻は「大石内蔵助」の叔母にあたり、「大石家」とは親戚関係にありましたが、当初から義盟には加わらなかったようです。

 

「長屋門」型式の「金堂源八宅長屋門」が現存 ↓

 

ここから西側にかけては家臣たちの屋敷地として「三の丸」跡が拡がっていますが、その西端にあったのが「塩屋門」で、現在は石垣しかみることができません。しかし、「高麗門」型式の「塩屋門」が、歴代藩主の菩提寺である「花岳寺山門」(赤穂市加里屋)に移築して現存しています。

 

「高麗門」型式の「塩屋門」が「花岳寺山門」に移築 ↓

「高麗門」型式の「塩屋門」が「花岳寺山門」に移築 ↓

現在の「塩屋門」跡の石垣 ↓

古写真(明治10年頃に「塩屋門」) ↓

 

「塩屋門」は、「赤穂城」の「搦手門」の位置づけだったので、「浅野内匠頭」が江戸城で「吉良上野介」を切りつけたという一報を「萱野三平」等が駆け付けた早駕籠はここから入城したそうです。

 

次に「二の丸門」跡の通ると現在右手に「二の丸庭園」が復元されています。その入口に建っているのが「大石頼母助屋敷門」で、屋敷の発掘調査の結果を踏まえて2009年に再建された門です。

 

屋根は「切妻造り」で「本瓦葺き」を採用しています。

 

「大石頼母助」とは、赤穂藩の家老であった「大石良重」(大石内蔵助の大叔父)ということです。

 

「薬医門」型式の復元「大石頼母助屋敷門」 ↓

 

 

「二の丸庭園」の西端から「三の丸」への出入口に「高麗門」型式の復元「西中門」が建ちます。当門は、4月に工事が終了した様ですが、まだ通行はできないようです。

 

私はまだ見ていませんで、X(「二之丸」さんの投稿)で知り、写真も「二之丸」さんのモノをお借りしています。

 

「高麗門」型式の復元「西中門」 (望遠で撮影されたそうです) ↓

 

 

 

 

 

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只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。


「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。

はじめに ↓


「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ攻撃を仕掛けてくる敵方の侵入を防ぐための防衛施設としての役割の他に、いざという時の逃げ道の確保や、城の居住者が城内外を行き来したり、城内における各空間(曲輪)を間仕切りして管理したりする役割もありました。

「城門」の形式は、主に「薬医門」「高麗門」「長屋門」「四脚門」「棟門」「埋門(穴門)」「冠木門」「塀重門」などがありますが、お城毎に色々な名前が付いています。

名前の付け方は、「用途別」「門の通称の呼び名別」があり、更にそれぞれに詳細な名前が付いている場合があります。

「用途別」
-大手門、搦手門、水門、廊下門、不浄門、不明門、正門、表門・裏門、仕切門、番所門、御守殿門

「門の通称の呼び名別」
➀管理番号別に付す ②所在している位置や曲輪を名前に付す ③建っている場所のお城内の方角を付す ④所在している周辺の環境や状況を名前に付す ⑤具体的な用途を名前に付す ⑥門の色や材質を名前に付す ⑦形状の特徴から名前を付す ⑧門の管理者の名前を付す ⑨逸話や伝承から付す など 

これだけ見ても判りづらいと思いますので、今後その都度説明を加えていきます。

また、「大手門」「表門」「正門」等には、既にシリーズ化して終了した「櫓門」が多用されている場合が多いですが、今回の「城門」シリーズでは、「櫓門」は割愛します。

全国の「櫓門」シリーズ ↓

 

今回は「赤穂城(前編)」(兵庫県赤穂市の「城門」をお届けしますが、2回に分けてお届けしたいと思います。

 

「江戸城」の「松の廊下」で「吉良上野介」に対して刃傷を起こし「忠臣蔵」の原因を作った「浅野内匠頭(長矩)」の二代前、所謂祖父である「浅野長直」が1645年に、「池田家」2代の後に赤穂の地に入封して城づくりを進めて1661年に完成したのが「赤穂城」です。

 

この時代の新たな築城は非常に珍しいのですが、「長直」は国替えの際に、当時の将軍「徳川家光」から内々に築城許可を得ていたようでした。そして、近世軍学を反映した星型に近い曲輪を導入させたものでした。

 

しかし前述のように、1701年に「長矩」の江戸城に於ける刃傷事件で切腹、「浅野家」はお家断絶となって「赤穂城」は、「脇坂安照」の家中の者が在番となりました。

 

その後は、「永井家」1代、1706年からは「森家」2万石のお城として、幕末・維新まで続きました。

 

赤穂城」の立地と縄張りは、海岸沿いに「甲州流」や「山鹿流」の近世軍学に沿って築かれ、星形に似た曲輪で「横矢掛かり」を多用し、「輪郭式」と「梯郭式」を併用した「平城」であり「海城」でした。

 

現在の「千種川」の三角州の先端の砂州上に築かれその形内に展開されています。「本丸」は星形に近い多角形で周囲を石垣と堀で囲われています。「本丸」の南東部に「天守台」が築かれましたが「天守」は置かずに石垣で築かれた本丸城壁には、門が3基、櫓を1基を配備する他に、隅角には櫓台状の石垣の上に土塀を築いた「横矢桝形」を置いて、横から横矢を掛けるようにしていました。

 

「二の丸」は、「本丸」を輪郭式に取り囲む曲輪で門3基、櫓5基を置くとともに、円環状の平面である広大な曲輪内を石垣と土塀の仕切によって南北二つに区画して防衛機能を固めていました。

 

また「二の丸」の半分が海に面していたので船着場の「雁木」等の備えも有りました。

 

「三の丸」は、「二の丸」北側に配置され海部分を除く曲輪外周には石垣を設けて城下町との区切りとしていました。「大手門」は「三の丸」の北側に設けられ、右折れの「内桝形」で高麗門と櫓門と出桝形形成をしていました。

 

縄張り絵図(赤丸は復元城門、緑丸は他所へ移築現存城門、橙丸は移築武家屋敷門) ↓

 

まず「本丸」跡に建つ「城門」を見ていきます。「高麗門」型式の復元「本丸門」は、復元「本丸櫓門」とセットになっている「内枡形」内の表門です。1996年(平成8年)に復元されました。

 

門は「鏡柱」が屋根まで伸びて「冠木」は「鏡柱」の横に突き刺すようになるので、「冠木」の上に小さい壁ができている新式の「高麗門」になっています。

 

「高麗門」型式の復元「本丸門」の表門(奥に見えるのが「櫓門」) ↓

「高麗門」型式の復元「本丸門」の表門(枡形内から) ↓ 

 

「本丸」跡にはもう一基復元されています。「高麗門」型式の復元「厩口門(台所門)」は「土塀」「橋」と共に1996年〜2001年にかけて復元されました。

 

こちらの門も、「本丸門」と同様の新しい形式の「高麗門」で、両脇の白壁には「鉄砲狭間」が設えられ裏側(本丸側)にはそれ用の「雁木」が築かれています。

 

「高麗門」型式の復元「厩口門(台所門)」 ↓

「高麗門」型式の復元「厩口門(台所門)」 ↓

「本丸門」の復元「櫓門」 ↓

 

次に、「二の丸」を南北に二分する「棟門」型式の復元「西仕切門」です。2010年に復元されました。

 

屋根は「切妻造り」で「本瓦葺き」、「鬼瓦」には浅野家の家紋「違い鷹の羽」をあしらっています。「門扉」はヒノキ材とクリ材を使用し、上下には弓矢を射るためのすき間がある古い形式(透かし門)で復元されています。

 

「二の丸」を南北に二分する「棟門」型式の復元「西仕切門」 ↓

「棟門」型式の復元「西仕切門」 ↓

 

 

 

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只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。


「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。

はじめに ↓


「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ攻撃を仕掛けてくる敵方の侵入を防ぐための防衛施設としての役割の他に、いざという時の逃げ道の確保や、城の居住者が城内外を行き来したり、城内における各空間(曲輪)を間仕切りして管理したりする役割もありました。

「城門」の形式は、主に「薬医門」「高麗門」「長屋門」「四脚門」「棟門」「埋門(穴門)」「冠木門」「塀重門」などがありますが、お城毎に色々な名前が付いています。

名前の付け方は、「用途別」「門の通称の呼び名別」があり、更にそれぞれに詳細な名前が付いている場合があります。

「用途別」
-大手門、搦手門、水門、廊下門、不浄門、不明門、正門、表門・裏門、仕切門、番所門、御守殿門

「門の通称の呼び名別」
➀管理番号別に付す ②所在している位置や曲輪を名前に付す ③建っている場所のお城内の方角を付す ④所在している周辺の環境や状況を名前に付す ⑤具体的な用途を名前に付す ⑥門の色や材質を名前に付す ⑦形状の特徴から名前を付す ⑧門の管理者の名前を付す ⑨逸話や伝承から付す など 

これだけ見ても判りづらいと思いますので、今後その都度説明を加えていきます。

また、「大手門」「表門」「正門」等には、既にシリーズ化して終了した「櫓門」が多用されている場合が多いですが、今回の「城門」シリーズでは、「櫓門」は割愛します。

全国の「櫓門」シリーズ ↓

 

今回は「龍野城」(兵庫県たつの市龍野町の「城門」をお届けします。

 

1499年頃に「赤松村秀」が「鶏籠(けいろう)山」に中世城郭を築いたのが始まりでしたが、1577年の「豊臣秀吉」による中国攻めで、当時の城主「赤松広秀」がお城を開け渡します。

 

「秀吉」配下の「蜂須賀正勝」が1581年に入城後は、「福島正則」「木下勝俊」「小出吉政」が短期間で入替り入城しますが、1600年に播磨が「池田輝政」の領地となるとここに城代を置きました。

 

1617年以降は「本多家」「小笠原家」「岡部家」「京極家」が再び入替り立ち替わり入城しますが1658年には廃城して建造物も取り壊しが行われ「天領」となりました。

 

1672年に幕命によって「脇坂安政」が入城しますが、幕府に遠慮して「天守」等を築かず、幕末・維新まで統治し続けました。その間、幕閣へは「脇坂家」から2人の老中を輩出しています。

 

「龍野城」の立地と縄張りは、218mの「鶏籠(けいろう)山」への登り口から下に向かって近世城郭が築かれていて、登り口付近に石垣で囲われた「本丸」が置かれ「御殿」を設けていました。

 

「本丸」には「多聞櫓」の「武具櫓」と「太鼓櫓」が築かれただけのシンプルな構成でした。「本丸」へは「冠木門」「埋門」を経て入る構成です。また西側は「錣坂下(しころさかした)門」を経て「裏門(西門)」から入城しました。

 

「本丸」下にも曲輪を構え、「御厩」「作事場」等が置かれた周囲を「堀」で囲っていました。「本丸」入口の「冠木門」の南側に「大手門」が置かれていてその内側西方向に「御対面所」「御長屋」や「馬場」「鷹部屋」が配備されていました。

 

そして北西の高台には石垣を設けて「上御屋敷」を設け茶室の「聚遠亭」がありました。

 

城下町絵図(現地に掲出) ↓

 

城域内には現存の「城門」はありませんが、「高麗門」型式の復興「錣(しころ)坂門=西門」が「本丸」跡の西側に建ちます。屋根は「本瓦葺き」を採用しています。

 

「本丸」跡西側に建つ「高麗門」型式の復興「錣(しころ)坂門=西門」 ↓

「本丸」跡西側に建つ「高麗門」型式の復興「錣(しころ)坂門=西門」 ↓

 

城域外ですが「たつの市」内等には、移築門が何基か残っています。

 

まず、「薬医門」型式の「大手門」が、「因念寺山門」(たつの市揖保川町野田)に移築されています。

 

屋根は「切妻造り」で「本瓦葺き」で、門の片側の「袖壁」には「潜り戸」を設けています。「欅」を用いた堅固な門です。

 

「薬医門」型式の「大手門」が「因念寺山門」に移築 ↓

「薬医門」型式の「大手門」が「因念寺山門」に移築 ↓

「大手門」が建っていた辺り ↓

 

次に、「高麗門」型式の「城門」が「浄栄寺東門」(たつの市揖保川町正條)に移築されています。

 

「屋根」は「本瓦葺き」、「門扉」を覆う屋根部分は外向きに「八の字」に開いています。「門扉」は新しいモノに替わっていますが、上部が「竪格子」になる古い形式を採用しています。

 

「高麗門」型式の「城門」が「浄栄寺東門」に移築 ↓

「高麗門」型式の「城門」が「浄栄寺東門」に移築 ↓

 

また「長屋門」型式の「すかし門」が同じお寺の「浄栄寺山門」(たつの市揖保川町正條)に移築されています。

 

「屋根」は「入母屋屋根」を採用し「本瓦葺き」で、「脇坂家」の家紋「輪違い」が付いています。壁は柱を見せる「真壁造り」で、「門扉」には「潜り戸」とその横には「番所」の部屋が併設し、二階も「番所」となっていて上からも監視をしていました。

 

「長屋門」型式の「すかし門」が「浄栄寺山門」に移築 ↓

「長屋門」型式の「すかし門」が「浄栄寺山門」に移築(右側が「番所」) ↓

「長屋門」型式の「すかし門」が「浄栄寺山門」に移築(手前が「番所」) ↓

「脇坂家」の家紋「輪違い」が付く ↓

 

更に、「高麗門」型式の「錣(しころ)坂門」が「蓮光寺山門」(揖保郡太子町)に移築されています。

 

屋根は「本瓦葺き」で、「門扉」上部は「竪格子」になっています。

 

「高麗門」型式の「錣(しころ)坂門」が「蓮光寺山門」に移築 ↓

 

その他「城門」ではないですが、城域内には小振りですが「薬医門」型式の現存「家老邸門」が残っています。

 

「薬医門」型式の現存「家老邸門」 ↓

「薬医門」型式の現存「家老邸門」 ↓

 

以前紹介した復興「櫓門」は、↓からご覧ください。

 

 

 

 

 

 

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只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。


「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。

はじめに ↓


「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ攻撃を仕掛けてくる敵方の侵入を防ぐための防衛施設としての役割の他に、いざという時の逃げ道の確保や、城の居住者が城内外を行き来したり、城内における各空間(曲輪)を間仕切りして管理したりする役割もありました。

「城門」の形式は、主に「薬医門」「高麗門」「長屋門」「四脚門」「棟門」「埋門(穴門)」「冠木門」「塀重門」などがありますが、お城毎に色々な名前が付いています。

名前の付け方は、「用途別」「門の通称の呼び名別」があり、更にそれぞれに詳細な名前が付いている場合があります。

「用途別」
-大手門、搦手門、水門、廊下門、不浄門、不明門、正門、表門・裏門、仕切門、番所門、御守殿門

「門の通称の呼び名別」
➀管理番号別に付す ②所在している位置や曲輪を名前に付す ③建っている場所のお城内の方角を付す ④所在している周辺の環境や状況を名前に付す ⑤具体的な用途を名前に付す ⑥門の色や材質を名前に付す ⑦形状の特徴から名前を付す ⑧門の管理者の名前を付す ⑨逸話や伝承から付す など 

これだけ見ても判りづらいと思いますので、今後その都度説明を加えていきます。

また、「大手門」「表門」「正門」等には、既にシリーズ化して終了した「櫓門」が多用されている場合が多いですが、今回の「城門」シリーズでは、「櫓門」は割愛します。

全国の「櫓門」シリーズ ↓

 

今回は「三日月(乃井野)陣屋」(兵庫県佐用郡作用町の「城門」をお届けします。

 

「本能寺の変」で討ち死にした「森蘭丸」と同じ祖先を持った名門「森家」の「森長俊」が、15,000石で分地され「津山藩」の支藩「津山新田藩」を経て「三日月藩」へ転封され、1700年に「三日月(乃井野)」の地に陣屋を築きました。

 

「陣屋」というものの城域は広く、城外から城内へは「大手門」に相当する「表御門」を含め東西に5か所の門を構えて、「表御門」両脇には堀代用の池を設けていました。

 

当時の陣屋絵図(現地に掲出)

 

「表御門」の中央から右手にかけての段々上には武家屋敷群が広がり、更には現在復元されている建造物群が後背に控える「御殿」群を守備するような陣容になっています。

 

その「御殿」群の前にも水堀が施され、木橋を渡ると二重櫓門「中御門」が正面に構え、右側に「通用門」」、左側には門を監視するように二重櫓の「物見櫓」が建っていて、それらが「多聞櫓」で連結していました。

 

この裏側には、南東の山並みを背中にして石垣で段々が構えられ、藩主居館が藩庁等の 「御殿」が建ち並んでいました。

 

現在、当初「薬医門」型式の「表御門」が建っていた場所には、市内の「西法寺山門」に移築されていたモノを発掘調査の上、2018年に元の場所へ再移築された、稀有なケースです。

 

屋根は「切妻造り」で「本瓦葺き」を採用しています。「門扉」は古い形式の上部が竪格子になっていて、沢山の「饅頭金具」が付く堅固な門になっています。また、両側の「袖塀」には「潜り戸」を設けています。

 

ただ両端に有った堀代用の池は再現されていませんが、東側は広場になっています。

 

「西法寺山門」から元の場所へ再移築された「薬医門」型式の「表御門」 ↓

「西法寺山門」から元の場所へ再移築された「薬医門」型式の「表御門」 ↓

「西法寺山門」から元の場所へ再移築された「薬医門」型式の「表御門」 ↓

「西法寺山門」から元の場所へ再移築された「薬医門」型式の「表御門」 ↓

 

ここから真直ぐ北へ上がって行くと「御殿」が築かれた場所になりますが、ここには嘗て他所で公民館等として利用されていた「物見櫓」「長屋」が再移築され、それに付随した「長屋」や「櫓門」「城門」が復興されています。

 

「中御門」は以前「櫓門」として紹介しましたので割愛しますが、その脇の「長屋」内にある「通用門」「木橋」も一体的に復興されています。

 

奥から再移築現存「物見櫓」、復興「中御門」「通用門」 ↓

 

「中御門」の右手に構える復興「通用門」は、「長屋門」型式でしょうか「多門」で繋がります

 

 

移築現存の「物見櫓」と同じ外壁の「下見板張り」で屋根は「桟瓦葺き」、門の右側には「格子窓」が付きます。

 

「長屋門?」型式の復興「通用門」と復元「木橋」 ↓

復興「通用門」(手前)側から復元「中御門」、再移築現存「物見櫓」 ↓

復興「通用門」(裏側から) ↓

 

この一連の建物群の最も西側には、「長屋門」型式の建物内部の観覧用入口門が設けられています。

 

「長屋門」型式の建物内部の観覧用入口門 ↓

手前から「通用門」「中御門」「物見櫓」(裏側から) ↓

移築現存「物見櫓」については↓をご覧ください。 

 

 

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「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。

はじめに ↓


「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ攻撃を仕掛けてくる敵方の侵入を防ぐための防衛施設としての役割の他に、いざという時の逃げ道の確保や、城の居住者が城内外を行き来したり、城内における各空間(曲輪)を間仕切りして管理したりする役割もありました。

「城門」の形式は、主に「薬医門」「高麗門」「長屋門」「四脚門」「棟門」「埋門(穴門)」「冠木門」「塀重門」などがありますが、お城毎に色々な名前が付いています。

名前の付け方は、「用途別」「門の通称の呼び名別」があり、更にそれぞれに詳細な名前が付いている場合があります。

「用途別」
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今回は「山崎陣屋」(兵庫県宍粟市山崎町の「城門」をお届けします。

 

「尼子氏」が築いた砦に始まる「山崎城」に、1615年「池田輝政」の四男「輝澄」が3万8千石で入城し、居館を設けてそこを藩庁としました。しかし、お家騒動で廃絶となって「池田家」に替り「松井康映」が入封、その後一時「天領」となりますが1649年に「池田光政」の弟「恒元」が入封します。しかし、三代後の「数馬」が6歳で亡くなった為に「池田家」は廃絶になります。

 

そして1679年に「本多忠英」が1万石で入封しました。以降、幕末・維新まで「本多家」が代々領有しました。

 

山崎陣屋」の縄張りですが、陣屋でありながら、「本丸屋敷」を中心に西側に「西屋敷」、東側に「武者屯(たまり)」を配備して、その周囲を「内堀」「中堀」で囲っていました。

 

「陣屋絵図」(城内掲出分、図下が北)↓

 

上記「主郭」の周囲には「武家屋敷」を置いて、更に周りには「外堀」を構え、「表門」は外枡形を採用したり、「喰い違い石垣」を設けたりして凄く堅固な陣屋でした。

 

また「本丸屋敷」の四隅には「角櫓」を配備し、「武者屯」には二重の「太鼓櫓」を設けていました。

 

「陣屋縄張り図」(「山崎歴史郷土館」の資料掲出分)↓

 

現在「本丸」跡正面に「高麗門」型式の「紙屋門」が移築され建っていて宍粟市の指定文化財になっています。

 

屋根は「切妻造り」で「本瓦葺き」を採用し、「丸瓦」には「本多家家紋」の「立ち葵」が刻まれています。

 

「門扉」下方は板張りで上部は「透かし窓」という古いタイプになっています。また門に続く「脇塀」も「下見板張り」で、上部は竪格子になっています。

 

更には、門扉を開けた際に収納する屋根は外側へ開いた形で建っています。

 

「本丸」跡正面に移築された「高麗門」型式の「紙屋門」 ↓

「本丸」跡正面に移築された「高麗門」型式の「紙屋門」(「脇塀」も「下見板張り」、上部は竪格子) ↓

「本丸」跡正面に移築された「高麗門」型式の「紙屋門」(「袖壁」が手前に出る) ↓

「本丸」跡正面に移築された「高麗門」型式の「紙屋門」(内側にも「袖壁」が手前に出る) ↓

「本丸」跡正面に「高麗門」型式の「紙屋門」(門扉収納する屋根は外側へ開く) ↓

「丸瓦」には「本多家家紋」の「立ち葵」 ↓

 

 

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