ブログテーマ『城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」』にスポットを当てて、具体的なお城の写真をお届けしています。
「平櫓(一重櫓)」については、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。
「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓
※全国の「平(一重)櫓」の概算数、その出所、算出に当たっての自分自身の定義等を記載
「平櫓(一重櫓)」は、単独で建っている例はそんなに多くなくて、複合「天守」に付随する単層(一重)の「付櫓」や「多門櫓」、「二重櫓」「三重櫓」「櫓門」に付随する「続櫓」や「多門櫓」に多く見られます。
従って、「櫓」の中では、「三重櫓」や「二重櫓」とは違って、見た目が少し地味な「平櫓(一重櫓)」ですが、色々と歴史やエピソードなどもあるかと思いますので、併せてお届けしていきたいと思います。
現在のところ、「櫓」類は全国で概算総計は約286基(内、「現存」134基、「復元、復興、模擬」152基で、その内、概算数字ですが「平櫓」148基、「2重櫓」113基、「3重櫓」25基あると思われます。
今回は、「大洲城」と「土佐中村城」の「平櫓(一重櫓)」をお届けします。
■「大洲城」(愛媛県大洲市)
大洲でのお城の前身は、鎌倉時代末期の伊予守護職「宇都宮家」が築いたお城で、約200年間居城しました。
しかし「宇都宮家」は、「長宗我部元親」に与した家老「大野家」に城を乗っ取られますが、「大野家」は「小早川隆景」に滅ぼされ、その後「戸田家」を経て「関ケ原の合戦」で功績をあげた「藤堂高虎」が今治の築城を進め、「大洲城」には養子の「藤堂高吉」を城代として置きます。
1609年に「脇坂安治」が入城して城下の整備を押し進めていたので、1617年に「加藤貞泰」が入城した時点では既に近世城郭が出来上がっていました。
以降、「加藤家」が代々続いて、幕末・維新まで統治を行います。
現在「大洲城」において「平(一重)櫓」が見られるのは、現存で重文の「高欄櫓」、同じく重文「台所櫓」に2004年に木造復元された「天守」からそれぞれに繋ぐ役割の木造復元「渡櫓」です。いずれも白漆喰で城外側には窓を備えていますが、「本丸」側には窓は無く出入口だけを設けています。
木造復元「天守」の両脇に建つ木造復元「渡櫓」 ↓
重文「高欄櫓」と木造復元「天守」とを結ぶ木造復元「渡櫓」 ↓
重文「高欄櫓」と木造復元「天守」とを結ぶ木造復元「渡櫓」(外側には窓が並ぶ) ↓
木造復元「渡櫓」の内部(奥が重文「高欄櫓」) ↓
重文「台所櫓」と木造復元「天守」とを結ぶ木造復元「渡櫓」(「南櫓」から望む) ↓
重文「台所櫓」と木造復元「天守」とを結ぶ木造復元「渡櫓」(JR「肱川鉄橋」から望む) ↓
重文「台所櫓」と木造復元「渡櫓」 ↓
木造復元「渡櫓」の内部(奥が重文「台所櫓」) ↓
■「土佐中村城」(高知県四万十市)
「応仁の乱」が勃発した当初の1468年に「一条教房」が京都から中村へ下向して「国司」となり、「為松家」が「教房」の為に「中村古城」を整備しました。
そこで「一条家」は五代続きますが、1575年に「長宗我部元親」との争いに敗れて「土佐一条家」が滅亡し、お城には「長宗我部家」の城代が置かれます。
「関ケ原の合戦」後は、「山内一豊」が「土佐国」を与えられて、「土佐中村城」には弟の「山内康豊」が入城し、その息子「政豊」の時に近世城郭化されますが、その2年後の1615年の「一国一城の令」で廃城となりました。
現在「大洲城」において「平(一重)櫓」が見られるのは、1973年に「四万十市立郷土資料館」としてRC造り模擬の複合式「天守」が建てられその「付櫓」があります。白漆喰の壁には竪格子の窓と「瓦庇」が付く「石落とし」を設けていて屋根は「切妻屋根」です。
RC造り摸擬「天守」に付随する「付櫓」 ↓
RC造り摸擬「天守」に付随する「付櫓」(手前から) ↓
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