石・石塁・石垣シリーズ」は、昨日から、下記の分類表「①②-(4)打込み接・布積み」の石垣を導入しているお城を、再び日本の北から南にかけてご紹介しています。今回は、「江戸城」と関八州のお城「小田原城」「佐貫城」を採り上げています。

 

 

「打込み接」が「乱積み」か「布積み」かは、捉え方によって(横目地が真直ぐでない場合はどちらにするか?)はどちらにも分類できる場合もありますので、私の独断と偏見で分類したケースもありますが悪しからずご了解ください。

 

打込み接(はぎ)」は、積み石の接合部分を加工して、極力隙間を減らした方法です。そして隙間には「間詰(まづめ)石」が詰められたので、石間の隙間が少なくなり足をかけて上りづらくなりました。「接(はぎ)」とは接合するという意味です。

 

そして今回紹介する「布積み」は、石の大きさをある程度揃えているので目地がほぼ真っすぐに通り、隙間にも間詰石を丁寧に入れたりしています。ただ「布積み崩れ」という言い方があるように、横目地が真直ぐに通っていない箇所があったりする場合はどちらに(「乱積み」か「布積み」)分類するかは、その時の気分になっている場合があることは否めません。曖昧でスミマセン!

 

年代的には、文禄年間(1592年~96年)以降に築城されたお城の石垣はこの積み方が多いようです。年代が後半に行くほど、石の加工技術も向上して石の角が斫られて成形が進み「布積み」しやすくにもなりました。

 

この頃になると、「豊臣秀吉」による全国統一が進行し、傘下に置かれた領地には「豊臣臣下」の大名が入ってお城を築いたり、領土を安堵された大名達が自分の領土にお城をあらためて築く際には、中央政権下で進化している石垣技術や作事物技術などを採り入れて築城技術が地方に伝播していきます。

 

更には、「関ヶ原の戦い」(1600年)後から「徳川方」は、天下普請で「豊臣包囲網」を築くお城造りをおこなうと「徳川方」と「豊臣方」との緊張が高まるにつれて、豊臣恩顧の外様大名達も自分の城を強固にしようとの動きが出て、一層の築城技術の革新が行われる中で「布積み」が開発・導入されたりしました。

 

 

江戸城」(東京都千代田区)<「平川門」桝形構成している土塀下の石垣>

江戸城」(東京都千代田区)<「清水門 渡櫓門」の櫓台石垣>

江戸城」(東京都千代田区)<「日比谷門」跡から西南に続く石垣、堀跡(現心字池)越しに>

江戸城」(東京都千代田区)<「西の丸下曲輪」跡の「馬場先濠」沿いの石垣>

 

小田原城」(神奈川県小田原市)<復元「天守」東面の「天守台」の石垣>

小田原城」(神奈川県小田原市)<復元「天守」と「付櫓」台南面の石垣>

小田原城」(神奈川県小田原市)<復元「常盤木門 渡櫓門」の櫓台石垣>

小田原城」(神奈川県小田原市)<復元「銅(あかがね)門 渡櫓門」の櫓台石垣>

小田原城」(神奈川県小田原市)<復元「馬出門」桝形構成の土塀下の石垣>

小田原城」(神奈川県小田原市)<復元「二の丸 隅櫓」台の石垣>

佐貫城」(千葉県富津市)<「大手櫓門」跡の石垣>

佐貫城」(千葉県富津市)<「大手櫓門」跡の石垣>

 

 

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