「豊臣秀吉」が朝鮮出兵時の拠点として、「唐津」北の玄界灘に接する地点に築いたのが「名護屋城」(佐賀県唐津市)でした。

 

「名護屋城」の城主と歴史についてもう少し触れておきます。

「織田信長」の後を継いで天下統一事業を終えた「豊臣秀吉」は、「信長」の「中国大陸」征服の野望を受け継ぎ「明」から「天竺」まででも征服しようとする大計画を持っていました。

 

その通り道として「朝鮮半島」の「朝鮮」に日本軍の通過を認めるように対馬の「宗家」に交渉させますが決裂し、日朝間で火ぶたが切られます。

 

その朝鮮出兵の前線基地として、元々「松浦党」の「波多家」の「垣添城」を接収し、「加藤清正」「寺沢広高」を普請奉行として、1591年から九州の諸大名に命じて築城を開始し8ケ月で主要部のほとんどが完成します。

 

当時の「大坂城」に次ぐ規模を誇り、半径3km以内には出陣する諸大名の陣屋(陣城)が約130余りも築かれ、城下には3万人の予備兵力が待機し、更に城下町ができあがり一時には約20万人の人口にもなりました。

 

しかし、1592年に「秀吉」は出兵命令を出(文禄の役)して、当初は朝鮮半島で破竹の進撃を続けましたが、「明」の参戦もあり次第に戦線の膠着、朝鮮水軍による補給路を断たれ講和交渉を始めますが、「秀吉」は「明」からの使節の回答に激怒して1597年に再出兵を命じ「慶長の役」が起こります。

 

1599年に「秀吉」が病死し、すぐに撤退が始まり、当城からも全軍が撤収をしてその役割を終えて、「寺沢広高」が所有します。

 

1602年に「広高」は「名護屋城」の取り壊しを行い、「唐津城」築城の資材として使用しますが、「名護屋城」天守を、「唐津城」に移す計画があったようですが、「天守台」だけを設けて実現しなかったようです。因みに、現在「唐津城」に建つ「天守」は模擬天守です。

 

1602年に徳川幕府を開設した「徳川家康」は、朝鮮との国交回復を進めるにあたっては、朝鮮出兵の拠点となったこのお城を徹底的に破城するように指示するとともに、1638年の「島原の乱」終結後には、残っていた石垣の殆ど全ても取り壊し、完全な破城を行いました。

 

 

 

縄張りは、朝鮮出兵の為の「陣城」とはいいながら、城域17万㎡(甲子園4.5個分)に及ぶ総石垣造り、五重天守に10基の重層櫓、御殿、茶室、能舞台を持つ大城郭でした。縄張りは、秀吉の懐刀の「黒田孝高」、普請奉行は「黒田長政」「加藤清正」「小西行長」が担ったそうです。

 

「本丸」を中心に、西に「二の丸」、東に「三の丸」を配して、「二の丸」南西側に「弾正丸」を、「三の丸」東北側に「帯曲輪」を設け、「二の丸」と「三の丸」の間には「馬場」で繋がっていました。

 

更に「本丸」の北西崖下に「遊撃丸」、北側崖下に「水手曲輪」を配置し、「三の丸」北側の最下段には「上山里丸」「下山里丸」が設けられています。更にその北側から北東方向にかけて「鯱鉾(しゃちほこ)池」と呼ぶ堀を掘って、「台所丸」が突出していました。

 

「名護屋城」を見学する前に、「名護屋城博物館」で「肥前名護屋城図屏風」や「名護屋城模型」を見ておくと現地で見る破城された石垣を見ても実感が出来ると思います。

 

肥前名護屋城図屏風(名護屋城博物館内)

城模型(西方向より)

 

大手口~東出丸

それでは、「大手口」から「大手道」の坂を上っていきますが、「大手口」には左手に「三の丸」の石垣が迫り、右手には「大手門櫓台」の石垣が残ります。

 

大手口に立つ名護屋城碑と左に三の丸石垣が見える

大手口から登城道(左は三の丸石垣、右は大手門櫓台の石垣)

 

「大手道」を上り切った所は「東出丸」ですが、「東出丸」の櫓台の片方は上部が破却されていますが、片方は写真のように残っています。

 

東出丸の櫓台

 

三の丸

そこから「三の丸」に入りますが、「本丸」の東下に位置して井戸もあることから「御殿」が置かれていたようです。「三の丸」には「南東櫓台」と「南西櫓台」があり、いずれも上部は破壊されていますが、「南西櫓台」の中に残る「鏡石」で当時を偲ぶことが出来ます。

 

三の丸南東櫓台

三の丸南西櫓台(右)に鏡石、本丸旧石垣(左)

 

本丸

「本丸」へは二か所の「虎口」があり、メインの虎口からは左へ折れると大型の櫓門である「本丸大手門」が有りそれを抜けると石段が続き「本丸」に至ります。現在は、「大手門」の大きな「礎石」を見ることが出来ます。

 

本丸大手跡へ(左へ折れると石段が続く)

本丸大手門の礎石

本丸跡全景(天守台方向)

 

「本丸」はほぼ正方形で、北西隅に「天守」を他の隅には「二重櫓」を設けて「多門櫓」と「土塀」で繋がっていました。また「本丸御殿」も建てられていました。

 

現在は、少し盛り上がった「天守台」跡に碑が立ち、東側の「御殿」跡には発掘調査後は芝生で建物の推定範囲を示し、建物周囲で確認された玉石敷きは新たな玉石で表現しています。

 

天守台跡碑

一部石垣が破却された天守台

 

「御殿」は、天守に近い所に「奥向御殿」を置き、南には「対面所(たいめんじょ)」として使用された300畳敷の「大広間」があり、北側の建物群とは廊下で繋がり、更には先述したように「三の丸」にも「御殿」を置くほど「本丸」の面積が不足していたようです。

 

本丸御殿方向(玉石敷きを再現)」

多聞櫓跡と多聞櫓玉石敷の復元

 

「本丸」周囲の石垣は、かなりの範囲で破却されているのを確認することができます。

 

本丸旧石垣隅角部

本丸旧石垣と水の手曲輪

 

二の丸、馬場、弾正丸、遊撃丸

「本丸」跡から東側を見下ろした所に広い広場が見えますが、そこが「二の丸」跡で「長屋建物」がそこに建っていたようでその跡が並びます。

 

また、「本丸」跡の南側に延びる「馬場」跡や「弾正丸」の破壊された石垣、そして石の採掘場所が一望できます。「遊撃丸」もほぼ正方形で周囲は石垣で囲われた場所ですが、至る所で石垣の破壊を見ることが出来ます。

 

「二の丸」跡(長屋建物跡が見える)

「馬場西側櫓台」跡と「弾正丸」、左下之石採場を臨む(本丸より)

「馬場」下の石垣(何か所か破却されている)

「遊撃丸」跡(本丸より

 

山里丸、台所丸

「山里丸」は上下二つの曲輪からなり、「書院」「御座間」「大台所」「風呂屋」「能舞台」「茶室」が置かれ、「秀吉」の私的空間であったようです。冒頭見ました「屏風」でも、茅葺建物や朱塗りの欄干に囲まれた場所が見え、「鯱鉾池」は小舟を浮かべる遊興的な池であったようです。

 

「太閤居館」がある「山里丸」へは、「山里口」から何度も折れる曲がる虎口を上がる様に造られています。

 

山里口(上山里口に通じる何度も折れる虎口)

山里口(上山里口に通じる何度も折れる虎口)

太閤居館跡

鯱鉾池と台所曲輪(左側)

鯱鉾池

 

大名陣屋、その他遺構

また、お城の周辺には、当時出兵する大名や待機する大名が集められて、陣屋を構築して居住もしていたようです。陣屋の数は、約50もあったそうで、現在でも発掘調査されて跡が多数残っています。

 

木下延俊陣跡 内の石塁跡

 

最後に「名護屋城」から移築された中で最大の遺構だった言われている「仙台城」の大手門は、太平洋戦争で焼失してしまい、非常に勿体ないことをしましたが、唐津周辺の寺院にも「名護屋城」関連の遺構が残っていますので、足を延ばすことをお勧めします。

 

近松寺山門(名護屋城一の門-唐津市西寺町)

浄泰寺山門(名護屋城大門)

太閤馬盥(たいこううまだらい、「名護屋城」より移設)

 

現在は、「つわものどもも、夢の跡」状態で、石垣と各曲輪の広場に草が生い茂るだけのお城ですが、資料館内の屏風絵や模型と併せて、当城を見ることによって、当時の巨大城郭を実感できると思います。

 

 

 

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