本日の「天守台シリーズ」は、いよいよ最終回の第106弾「熊本城」(熊本県熊本市)です。

 

まだまだ「天守台」が残るお城は有ると思います。特に、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて築城されるも、「一国一城の令」によって破却されて、「天守台」だけが未だに残っているお城も多いと思いますが、106箇所については私が今までに訪れたお城ですので、これから訪城して「天守台」があれば追加をしていきます。

  

現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。

 

「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。

 

「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。

 

 

熊本城」(熊本県熊本市)の歴史と城主について記載しておきます。 

熊本(肥後)には、肥後守護職「菊池家」が「千葉城」を築き、その後「鹿子家」が「隈本城」を築城しますが、「大友宗麟」の庇護の下「城(じょう)家」が入城します。「城家」は、「豊臣秀吉」の九州平定によって「隈本城」を明け渡して、「秀吉」臣下の「佐々成正」が入城します。

 

しかし「成正」は失政で切腹させられた後、「加藤清正」が入城して前述の「千葉城」と「隈本城」を取り込んだ大城郭を築城します。

 

関ヶ原の戦いでは「清正」は東軍に参加しその働きを認められ、旧「小西行長」領の肥後南半分も加増されますが、「清正」死後の跡を継いだ「忠広」は所領を没収されます。

 

そして外様大名ではありますが幕府の信頼が厚い「細川忠利」が54万石で入城して、「細川家」が幕末・維新まで熊本を統治します。

 

 

「加藤清正」は築城するに際して、特に「大天守」と「小天守」は、「豊臣秀吉」が建てた「大坂城」を参考にして立派な「破風」を取り付けるなど1607年ごろには築かれていたようです。

 

外観復元「大天守」(「大坂城」と同じような大きな「破風」)とその大きな「天守台」

 

「大天守」は、五重六階地下一階で望楼型、「小天守」を渡櫓で連結し、「本丸御殿」からの「天守」入城は、「唐破風」が付いた「出張り」から「天守地下一階」へ入りました。

 

「大天守」左端の「唐破風付出張り」から「天守台」内の「天守地下一階」へ入城

 

「小天守」は、三重四階地下一階で望楼型、地下一階は台所になっていて「井戸」が有りました。

 

外観復興「小天守」(「打込接」で「布積み」に近い)

 

両方ともに、地下は土間でしたが、一階以上は畳敷きにして、「大天守」は「藩主」の居住空間となり、「小天守」は夫人の住居として建てられました。しかしその後は、藩主などの居住場所は「本丸御殿」等に移っていき、「天守」内部は倉庫化していきます。

 

「大天守」は、「大天守台」よりも大きな土台材を設けて大きく出張らせ、床材を外すと石落としになるように設計されています。

 

「大天守」の土台材は、「大天守台」よりも出張らせて建築

 

「天守台」は「打込接」で、「布積み」に近い積み方をしています。そして「小天守台」の隅石は、「大天守台」に比べて反りの角度が大きい「扇の勾配」を採用し、建物と「小天守台」のサイズは同じですが、鉄串の「忍び返し」を備えた守りを鉄壁にしています。

 

「小天守」と「小天守台」の間には鉄串の「忍び返し」

「小天守台」の反りの角度が大きい

 

また、「大天守台」と「小天守台」は左右ずらして構えているので、東側からの見栄えを良くする工夫もしていました。

 

「大天守」と「小天守」の立ち位置は左右にずらしている(震災後2018年10月の工事中の姿)

 

「熊本城」には、上記の「大天守」「小天守」だけでなく、各曲輪にも「天守級」の「三重五階」が建てられていて、曲輪毎に一つのお城の様になっています。その中でも最も立派で現存重要文化財指定されている「宇土櫓」は空堀から犬走りを伴う高石垣の上に建てられています。

 

左から「宇土櫓」「小天守」「大天守」「二重櫓」(「西の丸」跡から)

重要文化財「宇土櫓」(第二の天守と言われている、三重五階、平左衛門丸に建つ)

重要文化財「宇土櫓」(第二の天守と言われている、内側の「天守台」は高くない)

右端が「宇土櫓」の「櫓台」(空堀からの高石垣)

「宇土櫓」の「櫓台」(空堀からの高石垣)

 

その他、五階櫓は「竹の丸五階櫓」「飯田丸五階櫓」「数寄屋丸五階櫓」「御裏五階櫓」が建ち、三階櫓以上の櫓が全部で9基も建ち並んでいて当時は圧巻な眺めであったと思います。

 

これら「天守」にも相当する「五階櫓」の櫓台については、「天守台シリーズ番外弾」として次のブログでお届けしたいと思います。

 

最後に、2016年の「熊本震災」の影響で、「大天守」「小天守」は倒壊は免れましたが瓦や壁に大きなダメージを受けて改修工事が進められ、昨年に修理が完了して「大天守」が再入城できるようになりました。また、復元の「飯田丸五階櫓」は櫓台が崩落して建物は現在解体されるとともに、櫓台の改修工事中です。

 

私はまだ、新しく改修された「天守群」には行けていませんので、写真は震災前のモノ(一部震災後の工事中のモノあり)を使用しています。

 

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村