本日の「天守台シリーズ」は、第100弾「佐伯(さいき)城」(大分県佐伯市)です。

  

現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。

 

「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。

 

「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。

 

 

佐伯(さいき)城」(大分県佐伯市)の歴史と城主について記載しておきます。 

豊後の佐伯地方は、「大友家」の重臣で地方豪族の「佐伯家」が治めていました。一時は、「佐伯家」は「大友家」と決別しますが、「大友宗麟」の要請に応えて、「豊臣秀吉」の九州平定や朝鮮出兵では「大友家」に従軍します。

 

しかし「宗麟」の息子「義統(よしむね)」は朝鮮から逃げ出したとのことで「秀吉」から咎めを受け、それに伴い「佐伯家」も浪人の身となりました。

 

関ヶ原の戦い後、佐伯に入城したのが「森高政」ですが、彼は、中国大返しの時に「秀吉」の命で「毛利家」の人質になり、「毛利輝元」に気に入られて「毛利姓」を与えられ、以後は「毛利高政」と名乗ります。

 

関ケ原の戦いの時には、西軍の総大将が恩義のあった「毛利輝元」だったので、当初は西軍に属しましたが、盟友の「藤堂高虎」や「黒田如水」からの勧誘もあり東軍に寝返りました。

 

戦後は、「高虎」による「家康」への取りなしもあって、同じ石高2万石で佐伯に移封され、1606年に「佐伯城」を完成させます。以来、幕末・維新まで「毛利家」による統治が続きました。

 

 

少し城主について長くなりましたが、当初「高政」が山城として標高144mの「八幡山」に「本丸」を始め「二の丸」「西出丸・北出丸」を設け、「天守」や「櫓」等を建てた近世山城にしました。しかし、1637年の三代藩主「毛利高尚」の時に麓に「三の丸」を増築して藩主居館が移されました。

 

山上部分の俯瞰図(現地に掲出)

 

絵図によりますと「天守」は、「本丸」の中心に大きな「天守曲輪」を設けて、その中に更に「天守台」を築いて建てられました。「天守曲輪」の石垣は、1700年の初めに大改修が行われています。

 

「天守曲輪」への階段(後から付けられたモノ)

 

「天守」外観は、白漆喰の三重望楼型で、最上階には「廻縁・高欄」を設けていましたが、1617年の火災で焼失してからは再建されずに大小の石を積上げた「野面積み」の「天守台」だけが残りました。

 

「天守曲輪」と「天守台」の石垣(「二の丸」跡からのぞむ)

「二の丸」跡と「本丸」跡の間の「堀切」に架かる「廊下橋」(江戸時代に架橋)

城内唯一の現存「櫓門」(麓に建つ)

「三の丸御殿」の一部(現在は、「住吉神社」に移築され「住吉御殿」と呼ばれる

 

 

 

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