本日の「天守台シリーズ」は、第94弾島原城(長崎県島原市)です。
  
現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。
 
「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。
 
「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。
 
 
島原城」(長崎県島原市)の歴史と城主について記載しておきます。 
1616年に4万石で藩主となった「松倉重政」は、外様大名の牽制とキリシタン対策という任務の為に、1615年に出された「武家諸法度」の新城築城禁止にもかかわらず幕府からは新築を認められました。

 

RC造りの復興「天守」(南東から)



しかも「天守」を始め三重櫓3基、二重櫓10基、平櫓38基等が建ち並ぶ最先端の近世城郭を完成させましたが、石高に見合わない分不相応な立派なお城でした。
 
その為、築城に際しては多くの労力と重税を領民に課したことや、キリシタンへの弾圧を強めたこと、天候不順による飢饉も発生したこともあり、領民の不満が爆発して大規模な一揆が起こりました。
 
一揆勢は、城下を焼き尽くし「原城」に籠城したことから「島原の乱」に繋がり、当時の城主であった息子の「松倉勝家」は責任を取って切腹を命じられています。
 
その後は、「高力家」→「深溝(ふこうず)松平家」→「戸田家」→「深溝松平家」と譜代大名が入れ替わり、「深溝松平家」が幕末・維新まで統治します。
 


その立派な五重又は四重「天守」は、スクエアな「天守台」の上に建ち、各階下見板張りで無破風の最新式天守で最上階には「廻縁・高欄」をもうけていました。そして、「島原の乱」や「雲仙岳」の噴火と地震があった「寛政の大地変」でも炎上・倒壊することなく幕末・維新まで現存しましたが、廃城令で解体されました。

 

RC造りの復興「天守」(本丸跡南西から)

RC造りの復興「天守」(「本丸」跡北面)


現在は、絵図による外観復興によってRC造りで1964年に再建されましたが、絵図では四重で「下見板張り」ですが、復興天守では五重で初重は「海鼠壁」を採用しています。

 

RC造りの復興「天守」(「本丸」跡南西から)

RC造りの復興「天守」(本丸跡北西から)

RC造りの復興「天守」(本来は「下見板張り」だが復興では「海鼠壁」を使用)



「天守台」は、スクエアな状態を維持して位置も変化がありませんが、1884年に上部の石材が取り壊されて他所に利用されてしまっているので、高さや形は当時のままではないそうです。また「天守台」の西面を刳り貫いて出入口を設けています。加工・積み方は「打込接・乱積み」になっています。

 

「天守台」を刳り貫いて出入口を設ける(西面)

「天守台」は「打込接・乱積み」、奥には復興「西三重櫓」




 

 

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