本日の「天守台シリーズ」は、第92弾「佐賀城」(佐賀県佐賀市)です。
現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。
「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。
「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。
「佐賀城」(佐賀県佐賀市)の歴史と城主について記載しておきます。
元々佐賀は「龍造寺家」の領地でしたが、「龍造寺家」の後継ぎが暗寓であったので家老の「鍋島直茂」が「龍造寺家」一門から領国政治の委任を受けるという変則的な形でした。
「豊臣秀吉」は朝鮮出兵後に、肥前国を「鍋島直茂」に任せるとともに、豊臣政権の一躍を担います。
関ケ原の戦いでは、「直茂」自身は、東西両軍を天秤にかけ「家康」が優位という情報を得て、西軍の拠点であった「立花宗茂」の「柳川城」を攻めました。その結果、本領を安堵されましたので、「家康」に恭順の意を示すために、息子「勝茂」の弟を江戸に人質として置くことで幕府から好感を得て1609年から築城を行いました。
そして「龍造寺家」を継ぐ者が相次いで亡くなり、「勝茂」がその家督を継ぐことを幕府から承認され、幕末・維新まで「鍋島家」が佐賀の地を治めることになります。
「佐嘉小城内絵図」 (鍋島報效会所蔵)に描かれている五重天守
「佐賀城」は1611年に完成し、その頃には「本丸」の北西隅に高さ38mもの五重「天守」が建てられたようです。
「天守台」(手前は、「本丸入口」付近の石垣)
1726年に発生した大火によって「天守」以下の「本丸」内の建造物の大半が焼失してしましまいましたが、「天守」の再建は幕府への配慮から再建はされず、「天守台」だけが維持されました。
この「天守台」は現在も見ることができますが、南北31m×東西27m、高さ9mの巨大「天守台」で、「打込接・乱積み」、隅石もほぼ完成度の高い「算木積み」が採用されています。
巨大な「天守台」(「本丸御殿」側から)
「算木積み」の完成度が高い「天守台」(「鯱の門」側から)
「佐賀城天守台」の写真が、あまり撮れていなくて3枚だけしかありませんでした。
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