本日の「天守台シリーズ」は、第91弾「名護屋城」(佐賀県唐津市)です。
現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。
「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。
「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。
「名護屋城」(佐賀県唐津市)の歴史と城主について記載しておきます。
かつては、「松浦党」が支配する交易拠点であった名護屋に、中国大陸征服の野望を持っていた「豊臣秀吉」は海外出兵の前線基地を置くために、当時あった「垣添城」を吸収して築城するように九州の諸大名に指示しました。
縄張りは、「秀吉」の懐刀の「黒田孝高」、普請奉行は「黒田長政」「加藤清正」「小西行長」が行い、「天守」を含めて6基の重層櫓が建ち並び、300畳敷の対面所が存在したり、秀吉が滞在して興を楽しむこともできた太閤居館が建つ山里丸もありました。
「名護屋城博物館」内に展示されている「名護屋城」全景模型(南側から)
「名護屋城博物館」内に展示されている「名護屋城」全景模型(東側から)
「名護屋城博物館」内に展示されている「肥前名護屋城図屏風」
そして1592年、「秀吉軍」が攻め込んで「文禄の役」が朝鮮半島で勃発して暫くの間は善戦しますが、「明」の参戦によって戦線の膠着となり講和交渉を進めます。しかし、「明」からの使節の回答に対して激怒した「秀吉」は、1597年に再出兵を命じて「慶長の役」が起こりますが、「秀吉」が病死した1599年に撤退が行われました。
朝鮮出兵は中止されましたが、「徳川家康」が朝鮮との国交回復を進めるにあたっては、朝鮮出兵の拠点となったこのお城を徹底的に破城するよう指示が出されました。更に1638年の「島原の乱」終結後には、一揆などによって不穏分子に利用されるのを恐れた幕府は完全な廃城を実施しました。
「天守」は望楼型の五重で、戦場の最前線にあるお城とは思えないような巨大で豪華で優美なモノだったようです。黒漆や金箔が多用された装飾用の色々な破風を付け、緊迫瓦を使用、最上階の壁には「華頭窓」と「廻縁・高欄」を施していました。
「肥前名護屋城図屏風」に描かれている「天守」
「名護屋城博物館」内に展示されている模型の中の「天守」
「名護屋城博物館」内に展示されている模型の中の「天守」
これらは、「名護屋城博物館」内に展示されている「肥前名護屋城図屏風」やそれを元にして製作された模型から知ることができます。
「天守台」の石垣は、殆ど残存していないので、土の盛り土だけが残り、その外形がはっきりとは判らないそうですが、築城年代から台形或いは不当辺四角形ではないかと推定されています。
石垣が殆ど剥がされた「天守台」
ひっそりと立つ「名護屋城天主臺址」碑
また、発掘調査からは、穴蔵があったようで、礎石も見つかっています。
発掘調査された「天守台」結果(現地に掲出)
「天守台」の上にある礎石
「本丸御殿」跡から「天守台」(盛り土部分)方向
「天守台」から北方向(加部島)をのぞむ
城内に石採場があった(「馬場西側櫓台」跡と「弾正丸」跡の間)
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