本日の「天守台シリーズ」は、第88弾「久留米城」(福岡県久留米市)です。
  
現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。
 
「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。
 
「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。
 
 
久留米城」(福岡県久留米市)の歴史と城主について記載しておきます。

 

「西下櫓」「坤櫓」「太鼓櫓」の各三重櫓台と二重「多門櫓」台(「南堀」沿いの高石垣)


 
前身は、地方豪族による「篠山城」でしたが、その後「龍造寺家」に付く豪族が多い中で、宗教勢力の「丹波家」が当城を本拠地「高良山」の出城としていましたが、「島津家」に攻められます。

1587年に豊臣秀吉が九州平定すると、「毛利秀包」(「毛利元就」の九男)が入城して織豊期城郭として修築をして「久留米城」としました。

しかし関ケ原の戦い後は、「秀包」は所領没収となり、柳川藩32万5千石で入った「田中吉政」の子「吉信」が入城しますが、色々な事件を起こし嗣子もなく取り潰しとなります。

そして1621年に「有馬豊氏」が21万石で入城すると廃城に近いお城の再建と城下町の整備を70年もかけて行い幕末・維新まで存続しました。


「久留米城」は高石垣を築く「本丸」の周囲には何と七基の「三重櫓」とそれらを繋ぐ二重の「多門櫓」で囲まれるという非常に堅固な構えの城郭でした。


七基の「三重櫓」は、巽櫓、月見櫓、乾櫓、坤櫓、西下櫓、太鼓櫓で、「天守」は築かれませんでしたので、「巽櫓」が天守代用としての役割を果たしていました。

 

「南側」に並ぶ三基の「三重櫓」の古写真が残っていますが、その壮観さは言うまでもありません。

 

古写真(奥から「巽櫓」「太鼓櫓」「坤櫓」を二重の「多門櫓」が繋ぐ



現在でも、ほぼ「三重櫓」の櫓台が残っていて、特に南側の「水堀」から立ち上がる高石垣は急角度で、隅部の「算木積み」もほぼ完成度の高い技術が用いられています。

 

「蜜柑丸」跡から「巽櫓」台方向の高石垣(この石垣上には二重の「多門櫓」が建っていた)

 

天守代用「巽櫓」がある「本丸」跡の高石垣

手前の「太鼓櫓」台の高石垣


「天守代用」だった「巽櫓」は三重三階の層塔型で白漆喰総塗り込めで七基の中で最も大きかったようで、その「天守代用天守台」も「本丸」跡の南東隅に8段前後の石垣を積み上げていて、「打込接」で「布積み」に近い積み方の大きな規模になっています。

 

「本丸」跡の石垣の上に天守代用「巽櫓」の「天守台(櫓台)」が見える(「冠木御門」跡手前から)

「本丸」跡の石垣の上に天守代用「巽櫓」の「天守台(櫓台)」

天守代用「巽櫓」の「天守台(櫓台)」(西側から)

天守代用「巽櫓跡」碑

天守代用「巽櫓」の「天守台(櫓台)」の上り口


 

 

 

 

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