本日の「天守台シリーズ」は、第87弾「福岡城」(福岡市中央区)です。

  

現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。

 

「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。

 

「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。

 

 

福岡城」(福岡市中央区)の歴史と城主について記載しておきます。かつて「筑前国」は、「龍造寺家」「大内家」「大友家」「秋月家」等、様々な戦国大名の草刈り場となり、その中から「大友家」の一族であった「立花家」の「立花山城」の出城として「名島城」が築かれます。

 

「大天守台」(南東隅)

 

そして「豊臣秀吉」の九州平定で「名島城」は、「小早川隆景」に与えられ大修築して居城とします。

 

関ヶ原の戦いで西軍方の「小早川氏」は排除されて、徳川方に付いた「黒田孝高・長政」親子が、筑前52万石を与えられて「名島城」に入ります。

 

しかし領地運営がしづらいことから、新たに「福崎」の地に築城を始め、名前も「福岡」と変えて1607年に完成します。それ以降は、「福岡城」が「黒田家」の居城として幕末・維新まで続きます。

 

 

「本丸」跡の南側には、「天守台」群が西側から東方向にかけて「大天守」「中天守」「小天守」の各台が三連になって並びます。

 

「大天守台」

 

全ての「天守台」は「野面積み・乱積み」で、特に「大天守台」は大きく立派で入口は北側にそそり立った「鉄門」跡から入る構造となっています。その石段を上がると左手に「埋門」が構え、更に左手に曲がると「大天守台」の穴蔵部分に入ります。その中には多くの礎石が並んでいます。

 

非常に大きく立派な「大天守台」

「大天守台」西面(「野面積み・乱積み」)

「大天守台」へは「鉄門」を上がる構造

「鉄門」跡(「大天守台」から見下ろす)

「鉄門」跡を上った所から「大天守台」を見る

「埋門」を潜り左手に曲がると「大天守台」の「穴蔵」

「大天守台」の「穴蔵」に並ぶ「礎石」

 

更に備え付けの階段を上ると1階部分に出ますが、そこからの眺めは素晴らしく西側には「福岡城」の西の守りであった「大濠」を公園化した「大濠公園」がのぞめます。

 

「大濠公園」(「大天守台」1階部分からのぞむ)

「本丸御殿」跡(「大天守台」の北側)

 

東側に目を向けると、台下には礎石は無いですが「中天守台」が見下せ、その先に門跡の石段を挟んで「小天守台」が繋がります。

 

「中天守台」、奥に「門」跡を挟んで「小天守台」(「大天守台」から見下ろす)

「小天守台」(北面)

「小天守台」上(東方向)

「中天守台」と奥に「大天守台」(「小天守台」から西方向)

「小天守台」(左側)と「中天守台」(右側)に挟まれた「門」跡

 

このような立派な「天守台」群が残っているのですが、幕府に提出した「正保の絵図」には「天守」が記載されていないので、「天守」は建っていなかったのではと言われてきました。しかし、最近になって「天守」の存在を窺わせる様な文章が出てきて、現在では「天守」の有無を巡って論争があるそうです。

 

現地には、「天守」想像のCGが掲出されていましたので掲載しますが、「大天守台」の規模からすると「五重天守」で、「中天守台」は長いので「大天守」から繋がる「付櫓或いは多門櫓」そして「小天守台」には「三重小天守或いは三重櫓」だったことが想定できるらしく、CGの様な立派な天守群があったことを想像するだけでもワクワクしてきます。

 

「天守閣復元CG(類推)」(現地に掲出)

「大天守閣復元北立面図(類推)」(現地に掲出)

 

 

 

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