本日の「天守台シリーズ」は第69弾「米子城」(鳥取県米子市)です。

 

「湊山」頂上に聳える「大天守」(右)と「小天守」(左)の「天守台」(遠望)

  

現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。

 

「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。

 

「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。

 

 

米子城」(鳥取県米子市)の歴史と城主をまず見ていきますが、1591年に「吉川広家」が近世城郭を「湊山」に築城しました。

 

「広家」はのちの「小天守」(三重櫓)を築きましたが、お城全体の完成を見ることなく関ケ原の戦いの敗者として移封、その後入城したのが「中村一忠」でした。

 

1602年に四重五階の「天守」と三重四階の「小天守」を持つ山陰一の名城が出来上がりました。しかし、幼少だった「一忠」の側近と後見役との争い「米子騒動」が勃発し、更に1609年に「一忠」が急死します。

 

一国一城の令にも拘わらず「米子城」は存続が許されて鳥取藩「池田光政」の所領となり、家老が城代となりました。1632年には家老の「荒尾成利」が城代となり、以降幕末・維新まで「荒尾家」が米子城代で管理しました。

 

 

「米子城」の「天守」は、前述のように「大天守」と「小天守」が独立に建っていました。

 

「小天守」の「鯱」(「小天守」の5匹残る「鯱」の一匹)

 

「大天守」は明治初期の古写真に写っていて、一重・二重は同サイズで、「入母屋屋根」が同じ方向に三層見えます。また最上階は「廻縁」を囲う板壁が施されているようです。

 

「小天守」は、既に取り壊されていてその写真には写らず「天守台」だけが写っていますが、平面図や建地割図が残っているので想像が可能の様です。一重・二重は同サイズで望楼がその上に乗り、「大天守」と同様に最上階は「廻縁」を囲う板壁が施されていました。

 

現在「大天守」「小天守」の「天守台」が残っていて、「大天守」の方は、2段の石垣の上に「野面積み」で築かれて、「天守曲輪」より1段高く積まれています。上段には礎石が残っています。

 

2段の石垣の上に「大天守」の「天守台」が見える(野面積み)

2段の石垣の上に「大天守」の「天守台」が見える(野面積み)

石垣下から見上げる「大天守台」

「大天守台」

「大天守台」上の礎石

「大天守台」上の礎石

 

 

「小天守」の「天守台」は「大天守」の南側にあり、城内で一番高い石垣で、不当辺五角形で上部に礎石が残ります。幕末に積み直しが行われているので、「打込接」で築かれています。

 

「小天守台」(高さがある)

「小天守台」の隅石(「算木積み」は完成度が高く「打込接」の石垣-幕末に積み直し)

「小天守台」(「大天守台」から見下ろす)

「小天守台」へ上がる石段

 

今春1月1日のNHK「日本最強の城スペシャル」第10弾では、息をのむような美しい眺望と築城者の様々な工夫に迫り、「米子城」が選ばれていましたが、私が撮った写真ではあまり綺麗な写真がなくてスミマセン!

 

「中海」と石垣

「島根半島」と「弓ケ浜」(「大天守」台より臨む)

「大山(だいせん)」(「大天守」台より臨む)

 

 

 

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