只今、「近畿地方」以西の西日本の「櫓門」をお届けしています。「櫓門」といえば、「門」と「櫓」を兼ね備え、特に「大手」等の重要箇所を固めた最強の門でした。

 

「東日本のお城の櫓門」の総集編及び「西日本のお城の櫓門」前半はこちらからご覧ください↓

 

 

 

 

本日第77弾は、佐伯(さいき)城 三の丸櫓門(黒門)」(大分県佐伯市)の「櫓門」です。

 

佐伯(さいき)城 三の丸櫓門(黒門)」(県指定文化財)

 

県指定文化財「佐伯城 三の丸櫓門」(後ろに見えるのは「三の丸」跡に建つ「佐伯市民文化会館」)

 

豊後の佐伯地方は、地方豪族の「佐伯家」が「大友家」重臣として仕えていましたが、両家の衝突があり「佐伯家」は「大友家」とは決別します。

 

しかしその後「大友宗麟」の要請に応えて、「豊臣秀吉」の九州平定や朝鮮出兵には「大友家」に従軍しますが、「宗麟」の息子「義統(よしむね)」は朝鮮から逃げ出したとのことで「秀吉」から咎めを受け、それに伴い「佐伯家」も浪人の身となります。

 

関ヶ原の戦い後、佐伯に移されたのが面白い経歴を持つ「毛利高政」です。

 

彼は、中国大返しの時に「秀吉」の命で毛利家の人質になりましたが、「毛利輝元」に気に入られて「毛利姓」を与えられて、以後は「森姓」から「毛利姓」に改姓しました。

 

また、関ケ原の戦いの時には、西軍の総大将が恩義のあった「毛利輝元」だったので、当初は西軍に属しましたが、盟友の「藤堂高虎」や「黒田如水」からの勧誘もあり東軍に寝返りました。戦後は、「高虎」による「家康」への取りなしもあって、同じ石高2万石で「佐伯城」(大分県佐伯市)に移封され、1606年に「佐伯城」を完成させます。それ以来幕末まで「毛利家」による統治が続きました。

 

 

「佐伯城」は、当初山城として「八幡山」に「本丸」を始め「二の丸」「西・北出丸」を設け天守や櫓等が建っていましたが、1637年の三代藩主「毛利高尚」の時に麓に「三の丸」を増築して藩主居館が移されました。

 

その時に建てられたのが「三の丸櫓門(黒門)」でしたが、1726年に再建、更にその後改装されて現在に至っています。県指定の重要文化財に指定されています。

櫓部分が両脇に乗っかる形で、「下見板張り」の外観、表は横長、裏は短めの木製の縦格子に瓦の庇を付けた窓を設けています。

 

門扉の両脇には脇戸を設けていて、初重の屋根は表・裏ともに横から見ると切妻風に「へ」の字に見えます。全体的に古武士をイメージするような雰囲気を持ちます。

 

県指定文化財「佐伯城 三の丸櫓門」の正面(「下見板張り」に庇付きの木製縦格子窓)

県指定文化財「佐伯城 三の丸櫓門」

県指定文化財「佐伯城 三の丸櫓門」(初重の屋根が面白い「へ」の字、「三の丸」跡側から)

 

 

 

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