一昨日に訪城した「二条城」(京都府京都市中京区)の後編です。

 

一つは、「二の丸御殿」について、もう一つは、「二条城」を訪れてもあまり見ない部分や少しマニアックな所をお届けしたいと思います。

 

「洛中洛外図屏風」(林原美術館蔵)の中に描かれている「徳川家康」建築の「天守」(「東大手門」前に掲出分)

 

「二条城」内図(赤字は、私が挿入した文字で、これからご案内する箇所)

 

「二の丸御殿」内は、写真撮影が禁止なので、その雰囲気を写真で伝えることができません。また、襖絵や障壁画の殆どは模写で実物は別館の「展示収蔵館」内に納められているので、天井が高く欄間などもそのままの薄暗い厳かな感じの中に、少々新しい襖絵が入っているのは残念ですが、それでも当時の各々部屋の役割やコンセプト等が襖絵や障壁画から伝わってきます。

 

パンフレットに、少々内部の写真が掲載されていますので、それを掲載するのと併せて、外から見た各建物を紹介したいと思います。

 

現在残る「二の丸御殿」の建物の配置構成は、「雁」たちが空を飛んで行く形になぞらえて所謂「雁行(がんこう)形」となっています。

 

国宝「二の丸御殿」の「雁行型」建物配置(入場パンフより)

 

一番南に位置する「車寄」から最も大きい「遠侍(とざむらい)」に入り、左手上部に付随する「式台」、その斜め左に「大広間」、その北に「蘇鉄の間」が斜め左に建つ「黒書院」との廊下となり、更に北へ繋がる廊下の突き当りが「白書院」となります。

 

外から見ていきますが、「車寄」の唐破風部分には細かな彫刻があり横から見ると檜皮葺の部分が結構長いことが解ります。

 

国宝「車寄」の唐破風内には細かな彫刻

国宝「車寄」を横から見ると結構奥行きがある、屋根には檜皮葺

 

「遠侍」の大屋根は、「二の丸御殿」で最も大きく高いですが、部屋の間も「一の間」~「三の間」「柳の間」「若松の間」「芙蓉の間」「勅使の間」等を持つ広い平面面積だからです。

 

国宝「遠侍」の大屋根(妻側、南面)

国宝「遠侍 三の間、入場パンフより」

 

ここは、来殿者の控えの間であり、裏側には朝廷からの使者と対面する「勅使の間」があります。

 

国宝「遠侍」内の「勅使の間」(入場パンフより)

 

「式台」は、外から見ると横長の廊下のように見えますが、南側は将軍への要件や献上物を取り次ぐ「式台の間」、北側が老中の控室「老中の間」でここは質素に造らています。

 

右から国宝「遠侍」「式台」「大広間」(南面)

 

「大広間」は、南側が妻側となり、当時はその前の広場に「能舞台」が建っていたそうです。中は、将軍が座る「一の間」から「二の間」~「四の間」と取巻きます。

 

国宝「大広間」(妻側、南面でその前が「能舞台」跡)

冬仕様の蘇鉄と国宝「大広間」(平側、西面)

国宝「大広間」(「二の間」から「一の間」を見る)

国宝「大広間」(「四の間」)

 

「徳川家康」が将軍宣下を受けた後に各大名を集めた場所であり、また「徳川慶喜」が「大政奉還」を宣言した場所でもあります。「大広間」の将軍が座る場所からは南側にある「二の丸庭園」の最も美しい箇所が見えるように工夫されています。

 

国宝「大広間 一の間」西側外から見た「二の丸庭園」

 

ここから蘇鉄の絵が杉戸に描かれた「蘇鉄の間」を通って「黒書院」に入ります。

 

国宝「蘇鉄の間」

 

「黒書院」は、「蘇鉄の間」と「大広間」に対しては直角に建ち妻側は西に向いています。将軍が徳川家と近しい大名や高位の公家と対面する所で、こちらも「大広間」と同じ「一の間」~「四の間」という構成ですが、少し間取りが小さいです。

 

国宝「黒書院」(平側、南面)

 

 

国宝「黒書院」(妻側、西面)

国宝「黒書院」(「一の間」、正面「床の間」「違い棚」「帳台構え」、入場パンフより)

 

国宝「黒書院」前から見る二の丸庭園 

 

最後に将軍の居間と寝室である「白書院」は、「黒書院」同様の間取りですが、「付属の間」が付き、北側には「厠」が突き出ています。

 

国宝「白書院」

国宝「白書院」(北面、厠付)

 

以上が、「二の丸御殿」ですが、1626年9月に、上洛中の「徳川秀忠・家光」が「御水尾天皇」を招く行幸を行いました。「御水尾天皇」の中宮であった「秀忠」の娘「和子(まさこ)」も、一緒に5日間の滞在をして、能や和歌の会等が催されました。

 

その時に「二条城」は、「天皇」「中宮」の為に「行幸御殿」「中宮御殿」現在の「二の丸庭園」の南側に増築され、更にお付「女院」の為の「女院御殿」が、現在の「桃山門」と「南中仕切門」の間辺りに建築されたようです。

 

その場所がどの辺りであったかを確認するのも、当時の賑わいの思いを馳せることができます。

 

「二の丸庭園」奥に「行幸御殿」と「中宮御殿」が建てられた

「桃山門」手前の場所から「女院御殿」が建てられた

 

「本丸」には南西隅に「天守台」があったことは前編で写真紹介しましたが、この上に建っていた「天守」は、行幸に備えてこの場所に「天守台」を設けて「伏見城天守」を移築させた五重五階天守だったそうです。

 

「天守台」(「本丸」跡側より)

「天守台」下から見上げる

「天守台」から見た「桃山門」

 

そして、「御水尾天皇」は「天守」に二回上り「京」の街を堪能したそうですが、「天皇」が武士の「天守」の上ったのは「御水尾天皇」しかいないそうです。

 

ところで「徳川家康」が建てた「天守」はこの時に無くなったようですが、「洛中洛外図屏風」(林原美術館蔵)の中に描かれている「天守」は、「二の丸御殿」の西北隅に建ち、丁度現在の「清流園」内の「和楽庵」辺りだったようです。

 

「洛中洛外図屏風」(林原美術館蔵)の中に描かれている「徳川家康」建築の「天守」(「東大手門」前にて掲出の写真)

「家康」築城の「天守」があったと思われる場所(現在は、「清流園」内の「和楽庵」付近)

 

京都御所内にあった「旧桂宮邸」を移築した「本丸御殿」は、現在修築中の真っ最中で全て覆い被されていて見ることができませんが、「本丸」跡内には、色々と見所もあります。

 

「本丸御殿」は修築中

 

東側の本丸東門は、「本丸櫓門」と呼ばれますが、行幸時には「二の丸御殿」や「行幸御殿」等から「多聞長屋」や「廊下多聞」に繋がり、「二の丸」側の「溜蔵」から「本丸」へ二階建ての「橋長屋(廊下)」が「堀」を跨いでいました。

 

重文「本丸櫓門」の右側には二階建ての「橋長屋(廊下)」が架かっていました

 

「本丸櫓門」の上部は「白漆喰総塗籠め」壁になっていますが、元々はここが開いていて通り抜けができるようになっていました。

 

重文「本丸櫓門」の「本丸側」で上部の白壁は開いていて「橋長屋(廊下)」が架かり手前まで続いていた


この「溜蔵」と二階部分の「橋長屋(廊下)」は解体されて現在でも部材が保管されているようですので復元も期待できるかもしれません。

 

「本丸」には、「天守」が建つ南西隅以外の隅にも「隅櫓」が建っていて、現在でもその櫓台を見ることができますし、周囲には「雁木」を多用しているのが目に付きます。

 

「本丸 南東隅櫓台」

「本丸 西北隅櫓台」

「本丸 北東隅櫓台」

「天守台」下の「雁木」

「本丸」跡南側の「雁木」

 

「西二の丸」跡の一角に石を積み上げた場所がロープに囲われていますが、これは「旧二条城」の石垣の一部で、「織田信長」が「足利義昭」の為に築いた室町にあった「旧二条城」跡から発掘されたものです。

 

「旧二条城」の石垣の一部

 

また、この少し「北側」には、「石垣」の構造物が見えますが、そこが「西門」になります。現在は、そばまで近づくことが出来ず中の状態の写真を撮ることができませんが、「埋門」となっています。

 

重文「西門」の周囲「埋門」の石垣

 

重文の「北土蔵(米蔵)」は、「南土蔵(米蔵)」と同規模ですが、近くから見ると大きく、扉も厳重な鍵、窓には今まで気も留めていませんでしたが、小さな木の庇が付きます。

 

重文「北土蔵(米蔵)」の扉

「北土蔵(米蔵)」の窓に付く木の庇

 

「北中仕切門」の北側は手前が土塁となり外側は石垣ですが、丁度北に向かって石垣が折れ目となっている箇所には「太鼓櫓」が建っていたようです。

 

「太鼓櫓」跡

 

「北中仕切門」横に「矢穴」のある石を見つけ、柑橘類の黄色い実が見えて辺りを見回しながら気が付いたのが、脇の石垣加工が「すだれ仕上げ」になっていること、またそこから堀越しに見る「本丸」石垣が「打込接布積み」になっているなど、きめ細かな石垣加工を暫し堪能しました。

 

「北中仕切門」横の「矢穴」付き石垣と柑橘類の黄色い実

「すだれ仕上げ」の石

「本丸」石垣の「打込接布積み」(切込接に極めて近い)

 

「北大手門」は、「東大手門」より長さは3間短く、装飾性や部材は劣りますが、幅・高さは同じです。「二条城」の北にあった「京都所司代」との連絡門になっていたそうです。

 

重文「北大手門」城内側(下の「東大手門」と見比べてください)

重文「東大手門」城内側

 

その「北大手門」南側には東西に横たわる土蔵がありますが、それは「二の丸御殿北方の米蔵」で重文指定されています。真ん中辺りが長屋門になっていて潜戸も見られますが、その両端は蔵造りで、内側から見ると大きな扉が並んでいますが、残念なことに入場禁止エリアになっていました。

 

重文「二の丸御殿北方の米蔵」の「長屋門」部分

重文「二の丸御殿北方の米蔵」と「長屋門」部分(二の丸御殿側から、望遠で)

重文「二の丸御殿北方の米蔵」部分(横から覗き込んで)

 

この「米蔵」に対して直角に南北に建つのが復元「収蔵庫」でこちらも、前述の「米蔵」の延長のように内側に扉が並んでいます。

 

重文「二の丸御殿北方の米蔵」(手前)と復元「収蔵庫」(南方向)

 

このゾーンの西側には重文の「台所」と重文の「御清所」が並でいるので、これら「収蔵庫」は、食事の素材や薪等の燃料類が収納されていたと思われます。

 

復元「収蔵庫」と奥に「重文「二の丸御殿北方の米蔵」

復元「収蔵庫」(北向き)

 

復元「収蔵庫」の並びで、重文の「築地塀」が南に向かって延びていきますが、「御所」でも使用されている「築地」は圧巻です。

 

重文「築地塀」(南方向)

 

「東大手門」から入ってすぐ右手にある「番所」ですが、裏側からジックリと見るのが初めてで、その姿が表から見る番所の姿とは全く違う白壁に柱を見せる「真壁造り」となっています。

 

重文「番所」裏側(下の写真は表の顔)

重文「番所」表側

 

「東大手門」二階に上がれる階段が南側にあることは知っていましたが、「番所」裏から北側の二階に上がる階段があるのも初めて知りました。

 

「塀重門」を抜けて、入城した場所に戻りましたが、もう一度最後に「東南隅櫓」下に足を運び、ここもジックリと見て気が付いたのが、櫓両脇の土塀(これらも重文)を支える「控柱」に加えて木材で斜めに補強されていることを知りました。

 

重文「東南隅櫓」(城内側から)

重文「東南隅櫓」脇の重文「土塀」を支える「控柱」

 

今回の「二条城」訪城は、久しぶりの「二の丸御殿」見学と、城内をユックリ、ジックリ見たことで色々と今まで気が付かなかった事が解り、有意義な二時間であったと思いました。

 

 

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