姫路城」(兵庫県姫路市)といえば天守群とその周囲を取り巻く櫓群をイメージしますが、もう一つの見所が「西の丸」にある「化粧櫓」とそれに続く多聞櫓の連続「百間廊下」ですよね。

 

「西の丸」の北側(「大天守」より見下ろす)

「西の丸」の南側(「大天守」より見下ろす)

 

「化粧櫓」は、もう誰でも知っている「千姫」が住んでいた櫓。

 

「千姫」は、祖父の「徳川家康」が仕掛けた「大坂夏の陣」で最初の夫「豊臣秀頼」とは死に別れ、父親の「徳川秀忠」のもとに「坂崎直盛」によって助け出されて無事送り届けられましたが、彼と「家康」との「千姫を助け出した暁には両者結婚を許す」という密約的な政略結婚を拒否します。

 

そして、その後当時の姫路城主「本多忠政」の息子「本多忠刻」に嫁すべく10万石の化粧料を持参して「姫路城」入りとなり10年間の夫婦生活を過ごしますが「忠刻」とも死に別れ、暫くはこの「化粧櫓」に籠って一人寂しく過ごしますが「姫路城」を去って「江戸」へ戻るという非常に数奇な人生を送った「千姫」でした。

 

「千姫」の化粧料で造成したのがこの「西の丸」と言われ、彼女の「化粧櫓」とお世話する女中用の「百間廊下」が現在見ることができる建造物ですが、この真ん中にも「西の丸御殿」が造られたそうです。

 

「西の丸御殿」跡

 

今日のブログでは、この「西の丸」の建物群を採り上げようと思いますが、その前に少し、「姫路城」内にあった「御殿」について簡単に触れておきます。

 

他に3つの「御殿」がありましたが、一つ目は「天守」南側にある「備前丸」内に「本丸御殿」があり、曲輪の南側周囲には「長局」と呼ばれる「多聞櫓」と「対面所」も築かれ、「備前門」脇の現存の「折廻櫓」室内が数寄屋造りとなっていることも頷けます。

 

「本丸御殿」があった「備前丸」跡

「本丸御殿」とともに御殿の一部として使用された「折廻櫓」(右は「備前門」)

 

二つ目は、現在の復興「大手門」を入ると拡がる「三の丸広場」の東側に置かれた「向御屋敷」です、こちらは、藩主のくつろぎの別邸として使用され池泉回遊式の庭が築かれていました。現在の「姫路市立動物園」の中には、多分、池などが動物の飼育として使用されているのではないかと思いますが、今度は一度動物園内にも入ってみようかと思います。

 

「向御屋敷」跡(現在は「三の丸広場」、「大天守」より)

 

三つ目が、「西の丸」の真南下段に置かれた「三の丸御居屋敷」で、在国中の藩主の住まいであり藩政の中枢部分を担っていた最重要御殿だったそうです。

 

西側と東側には「多聞櫓」が固め「三重櫓」も建ち、南側にも「二重櫓」が建っていました。対面儀式を行う「表御殿」と藩主の生活の場の「中奥」、台所と役所から構成され、「表御殿」は雁行型になっていました。

 

「三の丸御居屋敷」跡(右側には「西の丸」跡)

「三の丸御居屋敷」北西隅には櫓台か?

「三の丸御居屋敷」跡の石垣と櫓台(「内濠」越しに見る、奥には「西の丸カの櫓」が見える)

 

では、現在残っている「西の丸」の建造物等を見ていきたいと思います。「西の丸」への入城は二通りあり、一つは「菱の門」を入って直ぐ左手に廻って入るルート、もう一つは「いの門」と「ろの門」の間から「化粧櫓」下に出るルートがあります。

 

今回は、「菱の門」を左手に曲がるルートで登城しますが、当初はそこには「西の丸南門」がありましたが、現在はその「礎石」を見ることができ、またその脇にはいざという時に武者を待機させておく「武者隠し」が現存しています。

 

「菱の門」の向こう側から坂を上ると「西の丸」跡(門の左には「武者隠し」の土塀が見えます)

「西の丸南門」跡の礎石

「武者隠し」

「西の丸東側の土塀」(上りきった所)

 

坂道を上った真前に見える二重櫓が「カの櫓」です。一重目と二重目が同型の「重箱型櫓」で、内側には窓と破風が一切なく外側には窓と共に二つの「石落とし」が付いていて結構大きな櫓です。

 

内側には窓と破風のない「カの櫓」

外側には窓と「石落とし」が付く重箱型の「カの櫓」

厳めしい感じの「カの櫓」(「三の丸御居屋敷」跡から)

 

そこから西側にかけて延びる「土塀」の先には「ワの櫓」が建ちます。「土塀」を「西の丸」跡の南側に拡がり前述した「三の丸御居屋敷」跡から見上げると「石落とし」を見ることができます。

 

「土塀」に付く「石落とし」(「三の丸御居屋敷」跡から)

 

「土塀」の西端の「ワの櫓」は小さめの「二重櫓」です。こちらも内側には窓が有りませんが東側に破風を付け、南側には「唐破風」を付けて格式を上げています。こちらも外側には二か所の「石落とし」を設けています。

 

内側に窓がない「ワの櫓」

「石落とし」を付けるも「唐破風」でやんわりとした「ワの櫓」(「三の丸御居屋敷」跡から)

「ワの櫓」(断崖となる「西の丸」西側から)

「西の丸」の西側は断崖絶壁(「南勢隠門」跡から見上げる)

 

「百間廊下」の見学入口はこの「ワの櫓」からになります。今回は、時間の都合もあり中の観覧はせずに外からの見学で済ませましたが、中は暫くは廊下のみで、土地の高低に併せて、外部から見ると櫓風に見える所に二階へ上がる階段を設ける接点部分があります。

 

「百間廊下」内部(2020年1月の写真)

 

そして、廊下を歩み曲輪側の女中部屋「長局」と廊下の西側に埋め込まれた「石落とし」を見ながら進む先には「化粧櫓」が位置します。

 

「百間廊下」併設の女中部屋「長局」の一室(2020年1月の写真)

「百間廊下」に埋め込まれた「石落とし」(2020年1月の写真)

 

この「化粧櫓」から繋がる「百間廊下」が、「三の丸広場」から「天守」群から見て非常に美しさを実感できる建造物群となりますので、その「櫓群」の説明をしておきます。

 

「化粧櫓」

「化粧櫓」と奥に「ヌの櫓」(「三国濠」越しに見た)

手前から「化粧櫓」「ヨの渡櫓」「ルの櫓」「タの渡櫓」「ヲの櫓」(見えている部分だけ、「水四の門」上から見る)

「ルの櫓」「タの渡櫓」「ヲの櫓」(右から、「水四の門」の上から見る)

「ワの櫓」と「カの櫓」「レの渡櫓」(「備前丸」から)

 

「化粧櫓」から続く部分は、「渡櫓」と「櫓」が交互に繋がっています。「渡櫓」は「廊下或いは廊下と長局」です。

 

もう少し具体的に言いますと、「化粧櫓」-「カの渡櫓」-「ヌの櫓」-「ヨの渡櫓」-「ルの櫓」-「タの渡櫓」-「ヲの櫓」-「レの渡櫓」-「ワの櫓」となります。

 

先日ブログでも紹介しました特別公開の「リの渡櫓」-「チの櫓」ですが、その次が飛んで「西の丸」の「カの渡櫓」-「ヌの櫓」になっているので、この間の「ヌ・ル・ヲ・ワの渡櫓」と「リの櫓」は破却されたのだと思います。

 

ヌ・ル・ヲの櫓」はどれも廊下の屈折部分にありますので折れ曲りになっていますがどれも単独ではない二重櫓と言えます。

 

「ヌの櫓」

「ヨの渡櫓」

「ルの櫓」

「ヲの櫓」

「レの渡櫓」(手前から、奥の「ワの櫓」迄続く、二重になっている所は櫓ではないようです)

 

この廊下の石垣の間には木の扉の出入口があり、“非常出口”と表示されていますが、元々の当廊下の出入口だったのか後から造ったモノなのか判りません。しかし良く考えると、重要文化財の建造物に後から付け加える造作をすることはあり得ないですね。

 

渡櫓下の出入口

 

「化粧櫓」ですが、中は二部屋に分かれていて、現在はその奥に「千姫」と思われる人形が寂しげに置かれていますが、その南側にも「武者隠し」があります。

 

「化粧櫓」内の二部屋(2020年1月の写真)

「化粧櫓」の下側に「武者隠し」

 

「化粧櫓」脇下から見る、「天守群」の美しさは、昨日のブログでも記載しましたが、城内一・ニを競う位の美しい姿だと私自身は思っていますが、「化粧櫓」から眺めていた「千姫」もそのような思いに浸っていたのではないかと思いました。

 

「化粧櫓」脇下から見る「天守群」

 

次回のブログでは、今回の第二の目的でした「中濠沿いの門跡を巡り」をお届けします。

 

 

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