本日の『「明智光秀」所縁(ゆかり)のお城』は、「坂本城」(滋賀県大津市)です。

 

「明智光秀」は、「織田信長」に仕えて初めて従軍したのが対朝倉・浅井との「姉川の戦い」でその後も「近江攻め」に加わり、更には「光秀」一手に任された大仕事「比叡山焼き討ち」の実行部隊長として当てられました。その戦功として、比叡山の東側の麓の土地「坂本」に領地が与えられました。

「坂本城址」碑

 

「織田信長」は、「比叡山延暦寺」の焼き討ち後も、「明智光秀」に「比叡山」を監視させる目的で「宇佐山城」を、更には「坂本城」を築かせましたが、「信長」の「京都」への水運ルートを確保する為にも役割を果たしていたお城であったようです。

 

その「坂本城」は三層の「天守」を建てていたことが、盟友「吉田兼見」の「兼見卿記」やイエズス会の宣教師「ルイス・フロイス」の著書「日本史」に記載されています。「安土城」が完成後にはそれに次ぐ天守と書かれていますし「小天守」も備えていたようです。まだ「安土城」が建築されていなかった当時でも、三重天守を作事出来る技術を「光秀」は持ち合わせていたということです。

 

「明智光秀」にとっては、本拠地のお城であったと言えます。「光秀」の養子となっていた「明智秀満(ひでみつ)」はその後城主となりますが、「本能寺の変」後に「秀満」は当城に戻りますが、「秀吉」方に取巻かれたことから、自害してお城も焼失してしまいました。

 

現在の城跡は、京阪「松ノ馬場(ばんば)」駅から琵琶湖に向かって下ってドン付きの大きな道を右折して進むと「坂本城址公園」着きますが、その少し手前の閉鎖となっている建物敷地前に、気が付かなかったらそのまま通り過ぎてしまうような赤っぽい大理石風の石に「坂本城本丸跡」碑があります。閉鎖建物の敷地部分が、「本丸」であったようです。

 

「坂本城本丸跡」碑

 

普段は企業(キーエンス)の研修所で閉鎖されていますが、2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」に併せて開催された「びわ湖大津光秀大博覧会」の一環で、土日祝等に無料開放されてきました。そして、2021年の2月末までの土日祝まで開放の予定のようです。

 

この敷地内の湖岸からは、水没している石塁が干潮で現れたり、「光秀」が見た「琵琶湖」の姿を堪能できると思います。

 

本丸跡(普段は閉鎖建物の敷地)

 

そこから少し進むと「坂本城址公園」があります。その中に立てられた「解説板」には「坂本城縄張り」が掲出されていますが、この公園の敷地は城外のようです。

 

「坂本城」の縄張り図(現地に掲出、◎現在地とあるのが「坂本城址公園」)

 

「本丸」は「琵琶湖」を背にして、西側に向けて「二の丸」「三の丸」と拡がる「梯郭式縄張」で、各郭の間には「内堀」「中堀」「外堀」で区切られていたようです。

 

坂本城址公園内の正面に立つ「坂本城址」碑

城址公園に立つ幟

 

現在、「坂本城址公園」には、まだ新しい「明智光秀」像と説明書き等が並んでいますが、「光秀」像はちょっと可愛い感じがする姿でした。

 

可愛い感じの「明智光秀」像(城址公園内)

 

お城の石垣は、「本丸」跡東側の湖岸の中に沈んでいて少し干潮になれば石が見られるとのことです。「城址公園」付近はお城の敷地内ではなさそうなのですが、公園と湖面の間には石塁のような石を並べてそれらしい雰囲気づくりを演出しています。

 

城址公園と湖面の間には石塁のような石

城址公園前の湖面(対岸の近江富士が見える、「光秀」が見たであろう光景)

 

ここから、少し西側に入った所に「東南寺」というお寺があります。以前はここに「坂本城址」碑が立っていましたが、現在はそこから約20m西側を通る旧「北国街道」(大道)沿いに移されています。大きな番傘を立てた下に「碑」が立ち雰囲気を出しています。

 

東南寺(以前は、この寺院内に「坂本城址」碑があった、二の丸跡)

「坂本城址」碑(二の丸跡、奥に東南寺)

以前の写真では「坂本城址」碑は、東南寺内に)

 

そして旧「北国街道」(大道)は、元々は「坂本城」が廃城となって「中堀」を埋めてできた道で、更に西側に通る細い道は「外堀」の跡とのことです。

 

中堀跡(旧「北国街道」)

外堀跡

 

現地には、遺構といわれるものは、その位しかありませんが、「坂本城」の「城門」や「城郭建造物」と伝わる建物が近くの寺院に移築現存しています。

 

比叡山山麓の「西教寺」と下阪本から北に約1.5㎞の「聖衆来迎寺」には、それぞれ「坂本城」の「総門」と「城門」が移築されています。特に「西教寺総門」は大きなお城の城門と謂わんばかりの立派な「高麗門」でした。

 

「西教寺」に移築された坂本城総門(高麗門、表側より)

「西教寺」に移築された坂本城総門(高麗門、裏側より)

「聖衆来迎寺」山門に移築された坂本城門

 

また、「西教寺」内の「大本坊(庫裏)」も、坂本城内の建物を「明智光秀」が「西教寺」の火災後に寄進したものと言われています。

 

「西教寺」内の大本坊(庫裏)」も坂本城内の建造物とか

 

当時最大級のお城だったと言われている「坂本城」は、「明智光秀」死後は、「光秀」の養子となっていた「明智秀満」が焼失してしまって破城となり、その廃材等は「大津城」の築城の為に運ばれたと言われています。

 

次からお話するお城4箇所は、「信長」の天下布武を成し遂げるに当たり、摂津、山城から丹波、丹後において、当時力を持っていた地元大名や地元豪族達を従属させる戦いの中で、「光秀」が関わったお城です。「光秀」は「織田軍団」の中でも頭角を現していき、各所への出陣の隊長等を歴任して活躍します。

 

次回ブログは、「信貴山城」をお届けします。

 

 

 

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