『①外圧で開国を迫られ、安政の大獄や将軍継嗣問題、攘夷運動等が高まる中で、幕府が威信低下し、そして、②最後の将軍”徳川慶喜”が大坂から江戸へ逃避していく、その間に起こった出来事に纏わる「お城」を採り上げる』シリーズは、今回で最終となります。

 

「旧幕府軍」が「薩摩軍」に追撃されて「大坂城」に戻る前には、既に総大将「徳川慶喜」は戦闘放棄で、重臣を引き連れて「大阪湾」上に待機させていた軍艦「開陽丸」で江戸へ逃げ帰った後でした。

 

その向かう先はお江戸で、徳川将軍家の別邸「浜御殿」(東京都中央区浜離宮庭園)内にある「将軍お上がり場」に上陸をしました。

 

正門の櫓台

「将軍お上がり場」跡

 

「勝海舟」がそこに出迎えましたが、その際に「慶喜」に対して「敗戦の責任はあなたにある」と言ったそうで、「慶喜」はその足で馬にまたがり「江戸城」に向かいました。

 

この「将軍お上がり場」ですが、幕末に14代将軍「家茂」が上洛して江戸に戻る際には船を利用しここに上陸しましたが、3回目は「大坂城」で亡くなった為に亡骸が揚げられました。

 

元々この御殿は、将軍家の鷹場であった地でしたが、1654年に4代将軍「徳川家綱」の弟で甲府城主であった「松平綱重」の下屋敷として建築されました。その後、「綱重」の子「綱豊」が6代将軍「家宣」になったので「西丸御屋敷」となり、更に改称されて「浜御殿」となりました。

 

以降、徳川家の別邸となり、鴨場、潮入の池、茶屋、お花畑を造りました。特に海水を取り入れて干満の変化で風景を変える「潮入り回遊式築山泉水庭」としました。

 

「潮入の池」と復元「中島のお茶屋」

庭園で延遼館跡(1869年に日本最初の石造り建築物が外国要人の迎賓館として建てられた)

6代将軍「徳川家宣」お手植えの五葉松

鴨場の「小覗」

 

内部は主に庭園と茶屋でしたが、正面入り口は江戸城三十六見附の一つとして、最大の枡形門となっていました。現在でも、その櫓門の立派な石垣が残り、入口前の広さが枡形の大きさを実感できます。そして幕末には、この地は「幕府海軍伝習屯所」になりました。

 

正門の櫓台(内側から)

正門の櫓台(左側)

正門の櫓台(右側)

 

園内には、多くの「茶屋」等の建造物がありましたが、関東大震災や太平洋戦争等で倒壊・焼失してしまいました。現在は、「旧浜離宮庭園」となり、「特別史跡」や「特別名勝」に指定されていて、後背に聳え立つ品川高層ビル群とも対照的に映えて写ります。また、「松の御茶屋」「鷹の御茶屋」等が復元され、更に建造物の復元計画が検討されています。

 

「浜御殿」(現「旧浜離宮庭園」)と品川高層ビル群

 

次回ブログでは、約10年間に亘って推移した歴史の流れの総まとめをお届けしたいと思います。

 

下記バナーのクリックをどうぞよろしくお願いいたします。


お城巡りランキング

 

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

PVアクセスランキング にほんブログ村