『①外圧で開国を迫られ、安政の大獄や将軍継嗣問題、攘夷運動等が高まる中で、幕府が威信低下し、そして、②最後の将軍”徳川慶喜”が大坂から江戸へ逃避していく その間に起こった出来事に纏わる「お城」を採り上げる』シリーズです。
前回のブログでも触れましたが、「鳥羽・伏見の戦い」で敗れ、「淀城」が閉門されて逃げ込めなかった「旧幕府軍」が「樟葉(橋本)台場」等に辿り着きました。
しかし、追ってくる「薩摩軍」に加えて、それまで「旧幕府軍」として「高浜砲台」を守ってきた藤堂藩(津藩)の裏切りによって、「樟葉(橋本)台場」に砲弾が撃ち込まれたことで、「旧幕府軍」は大坂へ逃げざるをえませんでした。
「樟葉(橋本)台場」はこちらからご覧ください
https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12648593328.html#_=_
本日はこの淀川対岸に配備され、「樟葉(橋本)台場」に対して砲撃を加えた「高浜砲台」(大阪府三島郡島本町)をお届けします。併せて、ここから少し南側にある「梶原台場」(大阪府高槻市)もご紹介します。
淀川土手(堤)下に立つ「高浜砲台」跡碑
「高浜砲台」と「梶原台場」は、「樟葉台場」と同様に、淀川を外国船が遡上してくる可能性に対応すべく、当時の守護職「松平容保」が幕府に築城の進言をしました。それを受けて、「樟葉台場」と同様に「勝海舟」が設計をして築城され1866年に完成しました。
「高浜砲台」と「梶原台場」は、淀川の右岸に配備されたました。当時は、どちらも「旧幕府方」の「藤堂藩(津藩)」が守っていましたが、幕府の最有力藩「藤堂藩(津藩)」の裏切り、更には老中「稲葉家」の居城「淀城」の閉門という二つの大きな事件によって、「旧幕府軍」は総クズレとなり大敗を期すことになりました。
現在の「高浜砲台」跡は、淀川の河川敷辺りということですが、土手下の小さな薬師堂前に「高浜砲台跡」碑が立ちます。
「高浜砲台」跡碑
砲台跡碑から堤に上がる
「高浜砲台跡」碑が立つ周囲
高浜地区史跡案内
この土手上から見る「淀川」対岸はよく見通せる場所で、「石清水八幡宮」がある山が横たわりますが、丁度その麓辺りが「橋本陣屋」「樟葉(橋本)台場」になります。
淀川の対岸に見える「石清水八幡宮」がある山(住宅街の下辺りに「橋本陣屋」「樟葉台場」があった)
「淀川」の河川敷(この辺りに砲台が置かれていたのかな)
「梶原台場」跡は、現在田んぼとなり、特に碑が立っているようなこともなかったので、探し当てるのに苦労しました。
JR京都線の南側が跡地らしい
台場の堀跡かな? ただ単なる人工水路かな?
「旧幕府軍」は大挙して、最後の決戦を巨大城である「大坂城」で交えようと「大坂城」を目指して引き揚げます。
しかしそこで待っていたのは、総大将「徳川慶喜」ではなくて、首脳陣が誰もいないもぬけの殻の「大坂城」で、「旧幕府軍」の面々は戦意喪失となって勝敗が決定的となりました。
「淀城」の稲葉家と「高浜台場」の藤堂家の寝返りによって、旧幕府の立場が非常に弱くなり、大坂城に駐留していた将軍「徳川慶喜」は、「松平容保」「松平定敬」「板倉勝静(かつきよ)」等の重臣を引き連れて「大坂城」を逃げ出し、「大阪湾」上に待機させていた軍艦船で江戸へ逃げ帰り「浜御殿」に上陸したという不名誉な事態に繋がりました。
次回の場面は「大坂城」ですが、このシリーズでも既に採り上げましたので、幕末・維新時の「大坂城」の古写真や太平洋戦争前に写された江戸時代の雰囲気が残る古写真を、「大坂城」内で掲出されているモノ(撮影可分)に限ってお届けしたいと思います。
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