『①外圧で開国を迫られ、安政の大獄や将軍継嗣問題、攘夷運動等が高まる中で、幕府が威信低下し、そして、②最後の将軍”徳川慶喜”が大坂から江戸へ逃避していく その間に起こった出来事に纏わる「お城」を採り上げる』シリーズです。

 

長州征伐の四か所の戦いの中では、幕府軍が優勢であったのが「小倉口の戦い」です。「小倉城」(福岡県北九州市小倉北区)に対して「長州藩」は猛攻しますが、「小倉城」を守る「熊本藩」は最強の武器アームストロング砲やミニエー銃を持っていたので「長州藩」は苦戦します。

 

しかしながら、将軍「家茂」が「大坂城」で急死したことが伝わると、幕府軍は「小倉城」を自ら燃やして逃げました。

 

因みに、もう一つの戦い「大島口の戦い」では、「長州藩」領内の周防大島が戦場となり、幕府軍として加勢するはずの3藩からは出兵がなく、「松山藩」だけが参加して奇襲戦で当地を奪いましたが、すぐに「高杉晋作」と「山形有朋」率いる第二騎兵隊が駆けつけて大島の奪還に成功しました。

 

本日のブログは、この「小倉城」(福岡県北九州市小倉北区)をお届けします。

 

※私は以前「小倉城」に二度訪城していますが、随分昔のことで写真もアナログで枚数が非常に少なく色褪せたモノ(デジタルには変換しましたが)で大変申し訳ございません。

 

「小倉城」の絵図(城内に掲出分)

 

小倉の地は、関門海峡に面した陸海交通の要所であったことから、昔から豪族の取り合いが多く砦や城が築かれてきました。

 

そして、1569年頃に「毛利家」が築城し、その後「高橋鑑種(あきたね)」が入りますが、「豊臣秀吉」の九州平定の際には、「黒田孝高」等が「小倉城」攻めを行っています。

 

関ヶ原の戦いの際には、東軍方の「孝高」が、「秀吉」の側近だった「毛利勝信」在城の「小倉城」を攻めて落城させています。

 

その後「細川忠興」が丹後から39万9,000石に加増されて入封し、「小倉城」は「細川家」の石高に見合った城造りと城下町の整備を行います。

 

「忠興」が隠居して「中津城」に移ると息子の「忠利」が入城しますがその後「熊本城」へ転封、1632年に「小笠原忠真(ただざね)」が入封し、幕末維新まで統治します。

 

1832年には、天守含む「本丸」が焼失し、その後「本丸」は再建されましたが「天守」は再建されませんでした。

 

さて「小倉城」は、「忠興」が縄張りをして、東の「紫川」と西側に流れる「板櫃川」を天然の要害とし、両川が造るデルタ地帯に川から水を引き込んで「水堀」としました。

 

縄張り図(城内に掲出分)

 

九州の抑えとして築城されたお城ですので、規模もかなりのもので、「大天守」「小天守」の他に、「平櫓」117基、「二重櫓」16基、「櫓門」12基を備え、惣構えの大城郭でした。

 

「本丸」は、何重にも囲む中心に置かれ、その北東隅に破風無しの「南蛮型天守」が聳えていました。

 

「天守」は四重五階で「小天守」を伴う「連結式層塔型天守」でした。その他の「天守」の特徴は、一階平面が15間×13間であり上層階に行くほど直方体が目立ち最上階は長屋的な形になっていました。

 

当時の破風なし層塔型「南蛮型天守」絵図(城内に掲出分)

 

最上階の五階が四階より出張っていますが、最上階の「廻縁」を室内に取り込んだので下層階より大きくなりました。雨よけとしての「庇屋根」や「雨戸」も付いていたのでその部分が黒く見えました。

 

現在の「天守」は、1959年に「復興天守」として建てられましたが、元々の「南蛮型・層塔型天守」の形は踏襲されているものの、「入母屋屋根」「千鳥破風」「比翼千鳥破風」「唐破風」を盛りだくさん装飾して再建されました。

 

南東側から見上げる「復興天守」(色々な破風を装飾させている)

 

現在の「本丸」跡は公園となり、「北の丸」跡との出入りをする北西隅「多門口門」跡脇の「着見櫓」跡には、元々の櫓とは関係のない模擬の「三重櫓」が建っています。現在は店舗として使用されています。

 

復興「南蛮型天守」と「小天守」(本丸西側から見る)

「本丸」跡

模擬「三重櫓」(西側から)

 

「本丸」の北側には「北の丸」、南側には「松の丸」が主郭を構成していて、その周囲を「二の丸」が取り囲んでいました。

 

現在の「北の丸」跡ですが、「水堀」沿いの石垣が残り、三階建ての立派な城郭建造物が建っていますが、現在は何に使用されているか調べても判りませんでした。またこの建物の西側は「八坂神社」の境内になっています。

 

「北の丸」跡東側隅に建つ城郭建造物

「虎の門」跡付近から「北の丸」跡方向

左側は「下台所」跡

 

「本丸」と「松の丸」とは「槻(けやき)門」と「鉄(くろがね)門」で繋がっていましたが、「槻門」は城主や重臣が使用し、「鉄門」は下級武士が使用しました。

 

現在、「鉄門」の石垣が赤茶けた部分が目立ちます。これは、長州征伐の「小倉口の戦い」際に、お城を自ら燃やし逃れた時の火力で石を焦がした痕跡だそうです。

 

「鉄門」跡(左側の石の赤茶けているのは小倉口の戦いで自焼して焼けた為)

「槻門」石垣と「復興天守」(南側より)

 

「松の丸」から不整形な形をしている「二の丸」へは南東側は「大手門」で繋がり、西側では「西の口門」から「花畑」を抜けて繋がります。

 

こちらも石垣のみが残りますが、「松の丸」の石垣上には復興「土塀」が建ちます。

 

「大手門」跡石垣と復興「土塀」(「松の丸」跡の北東隅、奥に「槻門」あり)

 

「二の丸」には、「侍屋敷」「新馬場」「花畑」「下台所」「下屋敷」「御蔵」等が並んでいました。

 

「二の丸」南東からのぞむ、左の窪んだ所は「大手門」跡)

 

細川時代には筆頭家老「松井家」の屋敷跡で、その後「小笠原家」が入封してからは「下屋敷」として使用されていた場所ですが、私が随分前に訪城した時には丁度発掘調査中でした。

 

現在、そこには「小倉城庭園」として大名庭園と書院が復元されていて一般開放されています。また、「二の丸」の南東側には「北九州市役所」が、南西側には「松本清張記念館」が建っています。

 

以上の曲輪を西側から南側にかけてL字型に取り巻いているのが「三の丸」で「侍屋敷」が置かれていました。

 

現在は、市立中央図書館、市立文学館、小倉北区区役所等の公共施設(新)、勝山公園の敷地等になっています。

 

14代将軍「徳川家茂」が「大坂城」で逝去し、その後を受けて15代将軍となった「慶喜」が「二条城」で「大政奉還」を行いますが、次回のブログでは、この辺りの流れを今一度復習したいと思います。

 

 

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