『①外圧で開国を迫られ、安政の大獄や将軍継嗣問題、攘夷運動等が高まる中、幕府が威信低下し、そして、②最後の将軍”徳川慶喜”が大坂から江戸へ逃避していく その間に起こった出来事に纏わる「お城」を採り上げる』シリーズです。

 

前回のブログでは、「芸州口の戦い」で中心的な役割を担った長州方「吉川家」のお城「岩国城(前編)」をご紹介しました。

 

前編  https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12645990554.html

 

本日は、「岩国城(後編)」(山口県岩国市)をお届けします。

 

「錦帯橋」から見上げる「復興天守」

 

「一国一城の令」以降の江戸時代通じて、この場所で政務と行政が行われました。現在、堀に囲われた敷地内は、城主(藩主)だった「吉川家」を祀った「吉香神社」(重要文化財)や、矢倉台の跡に建てられた「錦雲(きんうん)閣」があります。

 

日常の居館である「お土居」の絵図 (城内に掲出)

「吉香神社」 (「陣屋」跡に建つ「吉川家」を祀る神社、重文)

 

「錦雲閣」は、藩政時代の矢倉跡に矢倉に似せて建築された「吉香神社」の「絵馬堂」です。

 

「錦雲閣」(「陣屋櫓台」の上に建つ旧藩時代の矢倉に似せて造られた絵馬堂) 

「錦雲閣」(「陣屋櫓台」に建つ、「内堀」越し) 

 

「御土居」という名称は、1698年に5代城主だった「吉川広遼(ひろみち)」の幼少時の居所として「仙鳥館(せんちょうかん)」が建てられた時に「御館(おたて)」という名前に替え、更に1868年に12代城主「吉川経幹(つねまき)」が城主格大名となったのを機に、「御城(おしろ)」と呼ばれるようになったそうです。

 

前術の説明は、「御土居」絵図が立てられた中に掲載されていますが、敷地一杯に「御殿建造物」が描かれ、南東隅には二層「矢倉」とその北側にも二層「矢倉」が描かれています。更に正面には、枡形の「櫓門」もあったようです。

 

日常の居館である「お土居」の絵(城内に掲出)

 

堀西側は現在、「岩国美術館」「ロープウエイの山麓駅」「岩国シロヘビの館」などの建物が建っている他に、重要文化財に指定されている土壁の黄色っぽい色が目に映える「旧目加田家住宅」があります。そこは、藩御用人を務める中級武士の邸宅でした。

 

「旧目加田家住宅」(藩御用人を務める中級武士の邸宅)

「旧目加田家住宅」

  

更に西側には、「吉香公園」として市民に開放された広場となり、春には紅白の梅が咲き乱れ甘い香りが周辺に漂わせています。

 

「吉香公園」内の白壁(「岩国陣屋」跡内)

「吉香公園」内(「岩国陣屋」跡内)

 

「吉香神社」南側の堀を越えた所には、「旧吉川邸厩門」が横たわっています。その東側には、藩校「養老館」の跡地で、現在も引き続き教育関係の建物として「岩国市教育センター」が建てられています。

 

「旧吉川邸厩門」

「旧吉川家岩国事務所」(明治時代に入り「吉川家」の邸宅の裏に建つ)

「藩校(養老館)」跡に建つ教育センター

  

その南西側に建つ「昌明館付属屋と門」は、7代城主「吉川経倫(つねとも)」の隠居所として建造され、廃藩置県の際には岩国県庁舎が置かれて岩国の政治の拠点となりましたが、現在は長屋と棟門が現存して市指定有形文化財になっています。

 

「昌明館付属屋及び門」(7代城主「吉川経倫」の隠居所、市文化財)

 

更に西側にある「香川家長屋門」も立派で、岩国藩の五家老の一家の武家屋敷門で、こちらは県指定有形文化財に指定されています。

 

「香川家長屋門」(藩家老屋敷門、県指定文化財)

 

「錦帯橋」のお城側入口近くに立っている銅像は、初代城主「広家」の孫である城主「広嘉(ひろより)」像で、「錦帯橋」を創建した偉業を湛えて立てられています。

 

藩主「広嘉(ひろより)」像

「錦帯橋」

 

「錦帯橋」は何度見ても美しいフォルムで、「錦帯橋」と「岩国城」のコラボは最高の見所だと思います。

 

「錦帯橋」と「復興天守」

 

次回は、「小倉口の戦い」の主戦場となった「小倉城」をお届けします。

 

 

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