「日帰りお城巡り」の「お城紀行」を投稿していましたので、一時中断していた下記のシリーズを再開します。
『①外圧で開国を迫られ、安政の大獄や将軍継嗣問題、攘夷運動等が高まる中で、幕府が威信低下し、そして、②最後の将軍”徳川慶喜”が大坂から江戸へ逃避していく その間に起こった出来事に纏わる「お城」を採り上げる』シリーズです。
前回までは、尊王攘夷に凝り固まった「天誅組」や「長州藩」配下の「騎兵隊」浪士達が各所で反幕行動に出て襲撃を加えた、お城や陣屋、代官所をお届けしました。
その結果、幕府は「第二次長州征伐」を決めて、将軍「家茂」は陣頭指揮を執る為に再度江戸から上京し、1865年6月に「大坂城」(大阪府大阪市中央区)に入ります。
戦線は、1866年6月に勃発しますが、それまでに幕府方は31藩の兵士が広島へ集められつつ、「広島城」(広島県広島市)城下の「国泰寺」では、幕府方と長州方の間で色々な駆け引き交渉が行われていました。
南西方向から見る外観復興「天守」
今回は、その「広島城」についてお届けしたいと思います。
当時幕末の藩主は「浅野長勲(ながこと)」で、「長訓(ながみち)」の養嗣子となり、二人三脚で幕末の難局を乗り切ろうとします。城内では、軍備拡張を進め、中央政局にも参加するようになります。
第一次長州征伐の際には、征伐軍の陣地にされ前述のように「国泰寺」を幕府軍の総督府が置かれます。更に第二次長州征伐の際には出兵を命じられますが、幕府に対してこれを固辞しました。
因みに「国泰寺」は、毛利時代に「安国寺恵瓊(えけい)」がいたお寺で広島城総構えの南限にありました。しかし原爆で焼失し、現在は「広島全日空ホテル」前に愛宕池跡と庭石跡が見られます。
旧「国泰寺」の遺構である「愛宕池」跡と「庭石」跡
「薩長同盟」が結ばれた直後には「広島藩」にも討幕の盟約に入る「薩長芸」同盟が結ばれかけましたが、「広島藩」が公武合体を探る「大政奉還の建白」に同調したことから、薩長から裏切り行為と見做され同盟から除外されるようになります。しかし結局は、「広島藩」は新政府軍として派兵をすることになります。
さて、「広島城」の成り立ちですが、戦国時代末期に「吉田郡山城」を拠点に中国・九州の一部の9か国までに及ぶ勢力を伸ばした「毛利元就」の孫にあたる「毛利輝元」が、「吉田郡山城」では交通の便が悪く統治しずらいとのことで、1591年から太田川のデルタ地帯に築城を開始しました。
「輝元」は築城に当たって、「豊臣秀吉」が築いていた「聚楽第」や「大坂城」に感銘を受けていたことから、それに匹敵するお城と城下町を1599年に完成させました。
しかしながら「関ヶ原の戦い」では、「輝元」は西軍の総大将に担ぎ上げられ、敗戦の責任を負わされて「萩城」へ移りました。
次に入城したのが「福島正則」で49万8千石の大大名で入封しました。善政を敷いていたものの、「豊臣家」との繋がりが強いこともあって、何かと幕府からの軋轢もありました。特に台風後の普請で大規模な改修を行ったり、その後の改修でも幕府への届け出の不備を衝かれ、「正則」の謹慎・転封に続き、「福島家」は改易となりました。
幕府から睨まれ「福島正則」が壊した跡(崩れかけた石垣は「本丸上段」北東隅)
その後に入封したのが「徳川家」と関係が深い「浅野長晟(ながあきら)」で、以降幕末・維新まで「浅野家」が統治します。
幕末・維新については前述の通りですが、「日清戦争」では「大本営」として使用され、「明治天皇」もここに7ケ月も滞在しました。しかし、現存で存在していた「天守」は、「太平洋戦争」における原子爆弾投下による爆風で一瞬にして倒壊しました。
「本丸上段」にあった「広島大本営跡」
原爆で倒壊した「天守」(城内に掲出写真)
「広島城」の縄張りですが、「本丸」と南側に配置した馬出的な「二の丸」を「内堀」が囲み、その東・南・西側をコの字型の「三の丸」で囲みます。
更にその周囲を「中堀」、そして「外郭」が取り巻く形になっています。「三の丸」西側から「外郭」西側に食い込む形で馬出的な区画が設けられました。
「外郭」の北・東・南の外側には「外堀」が掘られ、西側の「外郭」外側は「太田川」によって防備されるという徹底した構えとなっていました。
縄張り図(城内掲出分から、黒ポチは「櫓」配置)
「本丸」には、北西隅に「連結式天守」が置かれ、五重五階の「大天守」に南側と東側に三重三階の「小天守」が「廊下」で連結していました。そして他の3隅には二重の櫓が構えていました。
「天守」は望楼型天守で、望楼型にしては珍しい重階一致の天守です。外観は、最上階に「廻縁」が巡り、出入口両脇の壁には「華頭窓」を設けています。また二重目の入母屋でない面には「比翼千鳥破風」を、三重目には各面に「千鳥破風」が据えられているので装飾性に富んでいます。
現在建っている「天守」は、外観復元のコンクリート造りで1958年に再建されたもので、南面から「天守」に入場できるように付櫓風の玄関になっています。また、戦前の古写真でも存在が判る「天守」東面の「東廊下」部分は復元されていません。
外観復元「天守」南面(出入り口は付櫓風玄関)
外観復元「天守」北面
外観復元「天守」西面
外観復元「天守」(北東から)
外観復元「天守」東面
戦前の古写真(「天守」東面には「走櫓(東廊下)」部分が残る)
望楼部分(廻縁と華頭窓が見える)
最上階出入口両脇の「華頭窓」
二重目の「比翼千鳥破風」と三重目の「千鳥破風」
復興コンクリート造りの「天守」最上階
復興コンクリート造りの「天守」途中階
「本丸上段」に展示されている「天守」の「礎石」
次に「本丸」は上段と下段の構成となっていて、全体の2/3の上段には「本丸御殿」が置かれ、下段には「馬場」や「米蔵」として広い空間を取っています。また下段の北側、東側、西側の細長い所は「帯曲輪」となっていました。
「本丸上段」絵図(城内掲出分)
「本丸御殿」図(城内掲出分、下が北))
「天守台下帯曲輪」と「西帯曲輪」とを分ける小枡形
「天守台下帯曲輪」の石垣
「天守台」と「天守台下帯曲輪」の石垣(「内堀」西側越えで見る)
現在の「本丸」跡ですが、元々全ての面で石垣が築かれていた「本丸上段」は、「福島正則」によって、西面の一部と北面以外は崩されて土塁として、現在もそのまま土塁となっています。
「本丸上段」北側の石垣と「北帯曲輪」跡
「本丸上段」の会坂
「本丸上段」石垣の算木積み
西面の「本丸上段」石垣の上に「天守台」が立つ
石垣中段の排水口(「西帯曲輪」跡からから「本丸」石垣を見る)
石垣を壊して土塁にした「本丸上段」東側
石垣を壊して土塁にした「本丸上段」南側
石垣を壊して土塁にした「本丸上段」跡(上側)と「本丸下段」跡(下側)
特に、北東面の石垣が、途中から土塁になっている箇所がありますが、これは「正則」が幕府から無断修復だと咎められて自ら取り壊したと言われる部分です。
「福島正則」が壊した跡(「本丸上段」北東隅)
「天守」の南側と東側には、「小天守」の櫓台が残ります。そして丁度中央辺りには、「日清戦争」時に建てられた「大本営」の二階建て洋風建築跡の礎石を見ることができます。これも、原爆の爆風で倒壊しました。
「天守」南側の「南小天守」跡と「走櫓(南廊下)」跡
「南小天守」台(南側から)
「天守」東側の「東小天守」跡と「走櫓(東廊下)」跡
復元「天守」と「東小天守」台石垣
今回の前編ブログはここまでとして、次回後編ブログでは「本丸下段」から「二の丸」、「外郭」についてお届けしたいと思います。
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