秋に入り少しはコロナ禍が収まりかけていたことで「お城巡り」を再開し、名古屋・岐阜方面や先日は敦賀方面の「お城巡り」を進めていた矢先、再びコロナ第三派が猛威を振るってきて、都道府県によっては、「GO TO トラベル事業」の見直しに踏み込む所も出ています。
先日、敦賀方面五城巡りの「お城紀行」の投稿も一段落しましたので、暫くは「お城巡り」の自粛も念頭に置きながら、今回から暫くは、一旦中断していました『①外圧で開国を迫られ、安政の大獄や将軍継嗣問題、攘夷運動等が高まる中で、幕府が威信低下し、そして、②最後の将軍”徳川慶喜”が大坂から江戸へ逃避していく その間に起こった出来事に纏わる「 お城」を採り上げる』シリーズ<長くて済みません!!>を、再開しようと思います。
この間の概ねの歴史的出来事については、下記のURL(前回のブログ)でご確認いただければと思いますが、中断前にどこまでお話したかを、少しだけ復習しておきます。
https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12628091533.html?frm=theme
「鹿児島(鶴丸)城」北東隅の「鬼門除け」
幕府に攘夷を強く求める天皇や朝廷に対して、幕府は引き延ばしを行いますが、攘夷への対応を迫る朝廷やそれをバックアップしようとする「長州藩」の動きに対して14代将軍「徳川家茂」は上洛をせざるをえなくなり「二条城」に入りました。
「二条城」二の丸御殿
その間に「長州藩」は、尊王攘夷を叫び朝廷側に近づき、「京」内で過激な行動に出ます。 一方、それを取り締まる為に「京都守護職」に就いた「会津藩」の「松平容保」は「新選組」を使って鎮圧を図っていました。
「京都守護職上屋敷」跡(現 旧京都府庁庁舎)
すると、「長州藩」の一部の者が、天皇を拉致して長州へ連れて行こうとする事件が発覚したことから、御所内に駐留していた「長州軍」は、幕府方の「会津藩」と公武合体を理想とする「薩摩藩」から攻められ、御所内で「蛤御門(はまぐりごもん)の変」(1864年8月)を引き起こした「長州藩」は、京都から追放されて長州へ逃げ帰ります。
御所内の「蛤御門」
そして「長州藩」は以前より藩内で温めてきた「尊王攘夷・倒幕」を選択し、従来の日本海側で領地の外れに置かれていた「萩城」から、活動がしやすい「山口城」を造りそこを拠点に、「長州藩」の支藩・孫藩も巻き込みながら、着々と準備を進めます。
「山口城」政庁門
「萩城」模型(JR東萩駅前)
一方「長州藩」と同様に蠢いていた「薩摩藩」は、幕府と天皇とが一体となる「公武合体」で外国勢力を排除しようとする方向で活動していましたが、「薩英戦争」(1863年8月)によってさんざん打ちのめされ、「鹿児島城」城下は焼野原になるとともに、お城の「奥御殿」にも砲弾が撃ち込まれました。
そして「長州藩」も同様に、四国(英仏蘭米)からの砲撃「馬関戦争」(1864年9月)によって、さんざん痛い目に逢わされました。
こうしてこの二藩の外国勢力との争いによって、現状の幕府の力では到底外国に対して対抗できないということや、徳川家に対する長年の鬱屈した思いもあり、倒幕して新しい政府を創って国力を上げなければならないという認識で両藩は近づくようになりました。
このような流れの中で「薩摩藩」と「長州藩」が土佐の「坂本龍馬」の仲介で、二藩が協力して討幕をめざす「薩長同盟」(1866年3月)が結ばれ、「京」を中心に過激な倒幕行動を強める一方、幕府方の守護職「松平容保」も、配下の「新選組」に取り締まりを一層強化するように指示しました。
ということで、前述の流れの中で攘夷運動を進めた結果、英国からの砲撃を食らった「薩摩藩」の本拠地「鹿児島(鶴丸)城」(鹿児島県鹿児島市)を、今回のブログでお届けしたいと思います。
「島津家」は、戦国大名としての地位を築き九州統一に向けて、北九州の「大友家」と「龍造寺家」を破りましたが、「秀吉」の九州征伐の大軍に大敗して降伏しました。 その結果「島津義久」は隠居して、「島津義弘・家久」親子が豊臣政権で働くこととなり、朝鮮出兵でも活躍しました。
関ケ原の戦いでは西軍に参加したものの、西軍の敗退で「義弘」は敵軍の中を突破して帰国しましたが、戦後「家久」は、父「義弘」が勝手に西軍に参加したと主張したことから、幕府も大軍を擁する「島津家」との対決を回避する為に、領土を安堵したようです。
その後も幕府からの「島津家」に対する警戒姿勢は変わらず、一方「島津家」も、石高72万石の大大名にも拘らず目立った動きをしないよう、特に居城である「鹿児島城(鶴丸城)」は、天守は勿論のこと重層櫓も建てることを抑えて居館だけのお城に徹しました。
しかし、江戸時代中期頃からは、「島津家」が将軍家に接近する方向を採り、五代藩主「島津継豊」の妻に五代将軍「徳川綱吉」の養女を迎え入れ、その後も八代藩主「重豪(しげひで)」の娘が、十一代将軍「家斉」の妻となります。 また、幕末には、NHK大河ドラマ「西郷どん」や「篤姫」でも登場した十二代藩主「斉彬」の養女「篤姫」が十三代将軍「家定」の妻に迎えられるようになり、幕政に意見を言えるだけの地位を築くに至りました。
「島津斉彬」像
しかしながらその間、お城は一貫して、当初の居館中心のお城には変化がありませんでした。
「西郷どん」や「篤姫」のドラマの中で必ず出現したのは、正門である「御楼門」の櫓門です。 これは、正面10間(18m)もある豪壮な門で、右側に直角に折れて石段を上り本丸御殿に至る構造で、二階は海鼠壁を使っていました。 本年の春に「御楼門」が木造復元によって完成して、当時の姿が蘇りました。
私は、残念ながらまだこの姿を現地で直接に見ていませんので、今回写真を掲載できませんが、既に見られた方は多いと思います。 見られていない方の為に、こちらにリンクを貼りますので、どうぞご堪能ください。
御楼門はこちらにリンクしてください
復元前の「御楼門」前の欄干橋、水堀
復元前の「御楼門」跡と欄干橋
復元前の「御楼門」跡と欄干橋、水堀
復元前の「御楼門」跡の礎石
復元前の「御楼門」(明治6年焼失)から本丸へ入る階段
その他の建造物は、「御楼門」北側に「表具所多門」と呼ばれる一重二階の多聞櫓が配置され、本丸の北東隅で直角に折れて北側の「北御門」まで一重一階で繋がっていたようです。 そして、この北東隅の石垣は、鬼門除け(よけ)の為に、内側に凹ます「切欠き」を行っていました。
北東隅から北へ伸びる本丸石垣(奥に御北門があった)
北東隅の鬼門除け(この上に「表具所多門」が位置していた)
北東隅の鬼門除け「切り欠」
また「本丸」の石垣は、横目地が通る「布積み」で隙間が全くない「切込接」を採り入れていますので、横から見ると非常に美しく見えます。
本丸石垣(切り込みハギ)と堀
本丸石垣(横目地の通った切り込みハギ)
「本丸」の南東隅角部には、「角(すみ)櫓」という平櫓が置かれていて、現在は櫓の跡を平面表示しています。 その他にも、門が数か所あり「唐御門」「塀重御門」「御中門」「桜之門」などが置かれていました。
「角櫓」跡(本丸の南東隅にあった)
「角櫓」跡付近から城下を見下ろす
「本丸」は、「表書院」「奥書院」「裏書院」や「対面所」「広間」、「役人詰所」「台所」などの建物が建ち並び、「角櫓」の北側には庭園と柿葺きの「茶室」「水屋」「小泉所」「麒麟の間」の寛げる空間がありました。
現在は、「鹿児島県歴史資料センター黎明館」の建物が跡地の半分近くを占めて建てられていますが、「西郷隆盛」「大久保利通」等の明治維新に活躍した人物の資料や、鹿児島の歴史、文化、芸術に関するモノに触れることができます。
「本丸御殿」跡(現 「黎明館」敷地)
御殿「麒麟の間」跡(後ろは「黎明館」)
「本丸」跡(右)と「二の丸」跡(左)との間の石垣
「二の丸」は、「本丸」の南側に繋がり「世継ぎの居館」や「御用部屋」「御勘定所」などの建物が建ち「二の丸庭園」がありました。
現在「二の丸」跡は、「鹿児島県立博物館」「鹿児島市立美術館」が建つ他、庭園は「深勝園」として復元されています。 また、軍服姿の「西郷隆盛」像もこちらに立ち、お城を見下ろしています。
「二の丸」跡(現 「鹿児島県立図書館」)
「二の丸」跡石垣(切石)
復元された「深勝園」(二の丸庭園)
「西郷隆盛」像
「本丸」の建物は、1696年に全焼して11年後に再建されましたが以前と同様に居館造りを踏襲しました。 そして幕末まで健在であった居館も1873年の火災で焼失し、更に「二の丸」の居館も1877年の「西南の役」で炎上してこちらも失いました。
三方を石垣と堀とで囲い込んだ新城の居館の後ろには、中世からの後詰の城山(107m)を要していて、天守や高層櫓がなくても充分に守れる態勢を整備したお城でありました。
城山(「鹿児島城(鶴丸城)」の後詰めとなっていた)
お城の北側「御厩」跡には、1874年に下野した「西郷隆盛」が、陸軍士官養成の為に「私学校」を設立しました。 これは、不平不満を持っていた士族達の暴発を回避する目的で、「大山綱良」「桐野利秋」「大久保利通」等も私費を投じています。
しかし、この学校の生徒達が、「大久保利通」等に不満を抱いて「鹿児島鎮台」の弾薬庫を襲撃したことをキッカケとして「西南戦争」が起り、その後はこの学校は廃止されます。 現在は、門と壁が残り、その壁には弾痕の跡が多数残されています。
「御厩」跡に建てられた「西郷隆盛」設立の私学校門石柱と石垣(手前に「亀甲石積み」が見られる)
「西郷隆盛」の私学校石垣跡に残された「西南の役」での銃弾跡
「島津家」は、一国一城令の後も、本城の防御を担うべく隠れ城的施設の「麓(ふもと)」を、薩摩・大隅・一部日向国の中に約100箇所も持つ「外城(とじょう)制度」があり、本城がいざという時には、日ごろは「麓」で農業を行っている武士たちが駆け付ける仕組みが採られていました。このような仕組みがあったことからも、本拠地「鹿児島(鶴丸)城」の要塞化は必要ではなかったと言われています。
「知覧麓」領主仮屋跡(現 検察庁)
「知覧麓」折れ曲がった本馬場通りに沿って石垣と生垣(まっすぐ見通せないようにしている)
「知覧麓」武家屋敷群の石垣と垣根(通りが見通せないように)
「加治木麓」の石垣(護国神社前の仮屋馬場沿い)
「喜入麓」仮屋前の馬場沿い石垣
「重富麓」(旧 平松城跡を使用した麓、重富小学校校門前)
今回は、「鹿児島(鶴丸)城」から北に少し離れた所に建つ島津家の別邸である「磯御殿」には詳細に触れませんでしたが、そこは庭園とともに「仙巌園(せんがんえん)」と呼ばれていて、「島津光久」が1658年に造園しました。桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた借景方式を採り入れた壮大な庭園です。
「磯御殿」
また、「島津斉彬」はこの敷地を一部取り込んで、反射炉を用いたヨーロッパ式製鉄所やガラス工場を建設するなどした近代化を「集成館」で試み、1857年には、園内にある石灯籠にガス管を繋いで火を灯す実験なども行いました。
仙巌園内「反射炉」跡(「島津斉彬」が鉄の必要性から作らせた)
「鶴灯籠」(日本で始めてガスを使用した灯籠)
非常に海外を意識した近代化の採り入れを進め、「薩摩藩」の国力アップを密かに進めていたことが、その後の「薩摩藩」の倒幕、新政府態勢造りの原動力に繋がりました。
このように、江戸の幕府からは非常に距離があり、また幕末維新には「京」からも遠く、幕末に同盟になった「長州藩」からも離れていることで、国内の幕末維新の殺気立った情勢に巻き込まれることなく、倒幕と新政府構築をじっくりと進めることが出来たのではないかと思います。
ただ、その後の征韓論で敗れた「西郷隆盛」と新政府に残った「大久保利通」等との対立が起こったのは、薩摩(鹿児島)にとっては想定外のことだったのではないでしょうか。
次回のブログでは、いよいよ幕府が「長州征伐」に突入していく間に関わったお城を紹介していきます。
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