コロナ禍の中(10/29~30)、初めての一泊二泊の「お城巡り紀行」、二日目の二城目は「桑名城」(三重県桑名市)です。
城内唯一の復興櫓「蟠龍(ばんりゅう)櫓」
「桑名駅」に到着し、観光協会でレンタサイクルをお願いして14時20分に市内へスタートしました。帰りの列車まで約2時間20分もあります。
地図は事前に入手して訪問する場所をマーカーして臨みました。
観光パンフレットの城内案内図
観光パンフレット「桑名市内版」
1635~50年位の「桑名城」縄張図(「本丸」跡「天守台」脇に掲出)
まず向かったのは、日本史で習った「七里(しちり)の渡し」です。東海道53次の中で唯一「桑名~熱田」間の七里(約28km)を船で渡るという場所です。これは当時、江戸幕府が御三家の一つであった「尾張の名古屋」城下を通行させない手段だったとか。
「七里のわたし」碑
「七里のわたし」の燈籠
安藤広重の「東海道五十三次」の浮世絵の中に、帆を張った船が行き来して遠くに緑の山々陸地が繋がっているモノを見たことがありその風景を期待していましたが、現在は護岸工事・水門工事後の姿で、水辺の美しい姿は見られません。
僅かに、燈籠と鳥居、松の木が一本それらしき風情を演出していましたが、近年そばにある「川口水門」と「舟入水門」の水門管理事務所として建てられた復興「蟠龍(ばんりゅう)櫓」がムードを醸し出してくれています。
「七里のわたし」の燈籠と鳥居、松の木
復興櫓「蟠龍(ばんりゅう)櫓」(西側から)
「桑名城」内には51基もの「櫓」を備えていましたが、その内の一つが海運の守護神としても建てられた当櫓です。浮世絵にも何枚かに描かれていて、鬼瓦には「龍」が使用されていたことでも有名となっていました。
復興櫓「蟠龍(ばんりゅう)櫓」(「揖斐川」方向から)
「蟠龍櫓」が描かれた浮世絵(復興櫓「蟠龍櫓」内に掲出)
外観を隅櫓に模して平成15年に築かれた二層二階で、管理事務所ですが二階は一般開放されて絵図や鬼瓦の「龍」が展示されています。
復興櫓「蟠龍櫓」に上げられているモノと同一の「蟠龍」(復興櫓「蟠龍櫓」内に展示)
東面切妻屋根に取り付けられた「蟠龍櫓」
櫓の東側は幅広い「揖斐川」が流れていて、それ沿いに右へカーブを描きながらお城の敷地が延びていきます。
東の防御となる「揖斐川」
「蟠龍(ばんりゅう)櫓」の南側は、「三の丸公園」が、二つの水門に繋がる「三の丸堀」の間に挟まれています。
「三の丸跡」(現 三の丸公園)
「七里の渡り」方向と「川口水門」
「舟入水門」跡
「川口水門」側(西側)の「三の丸堀」の壁面には、石垣を積んだ「城壁」が続き、「堀」の中には船を停泊させています。その城壁は、約500mもの距離で南へ延びますので、また後述したいと思います。
「川口水門」側(西側)の「三の丸堀」壁面に続く石垣を積んだ「城壁」
「舟入門」側の「三の丸堀」の東側にも「三の丸」跡があり、そこは「藩主御殿」が置かれた敷地でしたが、明治維新後は「紡績工場」になり、更には太平洋戦争時に「三菱重工」の軍需工場がありましたので破壊されました。三角形をしたこの土地は、現在、「吉の丸コミュニティパーク」として芝生が張られ憩いの場となっています。
「三の丸」跡(現在、「吉の丸コミュニティパーク」)
また、道路を挟んで、「揖斐川」沿いも市民の為の施設である「桑名市民プール」や「九華公園野球場」が拡がっていて、そこは「朝日丸」跡の曲輪でした。
「三の丸」跡(現 「桑名市民プール」)
道路を進んで「三の丸堀」に架かる「舟入橋」の脇には、石にどっかりと座った「本多忠勝像」が置かれています。初代藩主で「徳川四天王」の一人だった彼は、初陣から57回もの戦いに臨んできたが全くの無傷であったとの伝説がのこります。
初代藩主で「徳川四天王」の「本多忠勝」像
ではここで、お城の歴史と城主について触れておきたいと思います。
遡れば、平安時代に伊勢国を「伊勢平家」が治め、鎌倉時代に桑名に移って「桑名家」を名乗りここに城館を築いたのが始まりとか。室町時代になり、自由都市として栄え貿易拠点となったことから、戦国時代には戦国大名から進攻を受けるも、「三十六人衆」という有力者が纏まりそれらを阻止し、その内の一人が「二の丸」「朝日丸」に城を築いたのが「桑名城」のスタートらしいです。
1567年に「織田信長」が伊勢に侵攻して桑名に本陣を置き、「滝川一益」が伊勢5郡を与えられて「桑名城」等を支配下に置き、更に「信長」の三男「信孝」を「神戸家」に養子に出して「神戸城」を築城させます。
1591年に「一柳直秀」が「桑名城」を築城、その後「神戸城」の天守がこの中に移築されます。
関ケ原の戦い後、初代藩主として「本多忠勝」が入城しますが、その後「本多家」の移封に伴い入城したのが「松平(久松)定勝」でした。彼は、「徳川家康」の異父弟でしたので、「幕府」からは丁重に扱われました。
「松平(久松)家」が、1707年に「高田城」へ移封となった後は、「松平(奥平)家」が入城しますが、大飢饉や数度の洪水で百姓一揆が起こりその責任をとらされたこともあり、再度、1823年に「松平(久松)家」が入封します。
幕末維新では、藩主「松平定敬(さだあき)」が、兄で「会津若松藩」主の「松平容保」が京都守護職を務め、「定敬」は京都所司代を務めて京都の治安維持に努めましたが、「鳥羽・伏見の戦い」で敗走し将軍「徳川慶喜」「容保」等とともに江戸に敗走、更に「戊辰戦争」にも参戦して新政府軍の標的となります。
「松平容保」が務めた「京都守護職」の上屋敷跡(京都市内)
藩主「松平定敬(さだあき)」が務めた「京都所司代」の上屋敷跡(京都市内)
最終的には、新政府に降伏しますが、その印として、当時天守代用であった「辰巳櫓」を焼き払われてしまいます。
「本丸 辰巳櫓」跡
このキリの良い所で「前編」を終了して、次回は「後編」をお届けします。
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