先日の速報ブログで、「久々の訪城”八幡山城”の迫力に圧倒!」を掲載しましたが、本日、詳細の情報をお届けします。

 

八幡山城推定図

 

速報でも触れましたが、「秋の関西 1デイパス」(3,600円)を使っての、「山上陣屋」(滋賀県東近江市)→「八幡山城」(滋賀県近江八幡市)→「三上陣屋」(滋賀県野洲市)を巡るというハードスケジュールで、歩行数23,000歩、約14キロメートルの歩行距離でしたが、帰りの「新快速」内では流石にグッタリでしたが、意外にも翌日はスッキリして快調でした。

 

久しぶりの「お城巡り」に、身体も脳も「ハイ」になっていたのかもしれませんね。

 

そうそう、「1デイパス」で気を付けておかなければならないルールがあり、この切符は前日までに購入しておかないとダメです。自宅でWEBからの購入はOKです。かつてこれを知らなかった私は、当日に大阪駅の緑の窓口で購入しようとしたらダメ!っと、駅長室迄行ってお願いしましたが、これはルールなのでダメ!という苦い経験があります。

 

「関西秋の 1デイ切符」と案内パンフ 

 

「お城巡り」の順番は前述の通りですが、速報タイトルのように迫力に圧倒された「八幡山城」(滋賀県近江八幡市)を先に紹介したいと思います。

 

JR「近江八幡駅」の観光案内書で「観光パンフ」をいただき、その横のレンタサイクルショップで自転車を借りました。この「1デイパス」には、1回だけですが無料でレンタサイクルが可能です。これで500円節約です。

 

自転車で山上行きのロープウエイ乗場まで約15分ですが、事前にその西側に拡がる「豊臣秀次」の居館跡がある「八幡公園」に寄ってみることにしました。

 

「豊臣秀次」の居館跡がある「八幡公園」

 

ところで「豊臣秀次」とは、時々大河ドラマにも登場する人物で、知っている人は「あの気の毒な武将」というイメージが強いと思います。

 

ここで「秀次」について、簡単におさらいをしておきます。

 

「秀次」は、「豊臣秀吉」の姉の子供、つまり「甥」で、子供に恵まれなかった「秀吉」に養子として迎え入れられ、軍功などもあって近江43万石を与えられ、そして「秀次」が築城したのが、この「八幡山城」でした。

 

「八幡山」のすぐ東側には「安土城」があった「安土山」が見えますが、1582年に「本能寺の変」で「織田信長」が倒れ「安土城」が燃え落ちた後に、「秀次」が「八幡山」にお城を築くにあたり、一部安土城下から町や寺などを移し多くの住民を移住させたといいます。そして、「信長」が行った「楽市楽座」を行い商業振興を行ったといわれています。

 

それが、今日「八幡山」の麓に現在でも見られる「八幡堀」とその周辺で栄えた商家群であります。<こちらは「八幡山城(後編)でお届けします>

 

八幡堀

新町通り

 

その後、「秀次」は「小田原攻め」での軍功で「尾張・伊勢」100万石の大大名となり「清須城」へ移り、その後に「京極高次」が2万8千石で入城しますが、1595年に「大津城」へ移った後は廃城となりました。

 

「秀次」はこのように「秀吉」の後継者として「関白」にもなりましたが、1595年に「秀吉」に謀反を企てたとの理由で高野山で自刃に追い込まれ、その関係者すべてが処刑されました。これは「秀吉」に、「秀頼」が誕生したことで、実子に後を継がせたく「秀次」を疎んじたと言われています。

 

さて前置きが長くなりましたが、「秀次居館」跡は、少しわかりにくいでしたが、「市立図書館」から団地の北側にある「八幡公園」とその西側から上にかけてがそのエリアのようです。

 

「秀次居館」跡の絵図

 

夏の後でもあり、公園内は草が茫々で、「豊臣秀次」像も草丈でなかなかわかりませんでした。その辺りは段々になっていますが、それが当時の状態だったようです。西側は、柵で立ち入り禁止のようですが、林の木々を一部伐採されていて今後調査対象地となるのでしょうか。

 

「秀次居館」跡、今後の調査エリアか?

「豊臣秀次」像

 

その境目を上に目を向けると段々になっているのが良く分かりました。石垣が残っていないのかと思い、上へ上る道を行きますと広場が現れ、その断面が野面積みの石垣面で拡がっていて、これには驚きました。また、少し写真では見にくいですが、林の木々の間からもギッシリと石積みが見えて凄く興奮をしました。資料によると、この状態が山の中腹位まであるようです。

 

「秀次居館」跡

「秀次居館」跡の石垣面

奥の竹林の中も「秀次居館」跡

「秀次居館」跡、竹林の隙間からも石垣が覗く

これも居館の石垣なのか

「秀次居館跡」発掘調査跡の写真(展望台に掲出の写真)

 

これ以上の石垣群を見ようと思えば、登っていけるかもしれませんが、まずは上りはロープウエイでと計画していたので、乗り場まで急ぎました。自転車を置いて乗車です。15分間隔で片道500円、往復800円とお安くなります。下りは徒歩でと予定していたので片道乗車券を購入しました。

 

標高272mですので、ロープウエイからの眺めは最高です。

 

 

山上駅に着いてすぐのお出迎えは、「二の丸」跡の石垣です。まずこの凄さに一撃を加えられました。「二の丸」跡は現在展望台になっていますので後から見ることにして、山上に向かいますが、コースとしては「西の丸」→「北の丸」→「本丸」にある「村雲御所 瑞龍寺門跡(もんせき)」→「二の丸」で1周30分ですので、そのコース通りに進みました。

 

ガイド

山上駅前の「二の丸」の石垣

 

「二の丸」と「本丸」の各跡の西面には「野面積み」の石垣がふんだんに見られます。

 

「二の丸」と「本丸」間の石垣

 

「西の丸」跡手前には、「本丸」北西隅に15四方の天守台跡があるとのことで、これだと思われる石垣群や隅石部分が見事に残っていました。隅石の算木積みもかなり技術的には上達した跡が見えますが、当時のものなのでしょうか。

 

綺麗な「算木積み」

本丸北西隅にある天守台跡(算木積みが見られる、15ⅿ四方)

本丸北西隅にある天守台跡(算木積みが見られる、15ⅿ四方) 

 

「西の丸」跡からの眺望は、琵琶湖を挟み比良山系が並ぶ、そして手前は麓の実り近い田畑が美しく拡がります。

 

「西の丸」跡

「西の丸」跡からの眺望

 

そこから、「本丸」北西から北側にかけても石垣が見事なほどに残っています。石垣好きには堪らない一品、いや十品かもしれません。

 

本丸跡石垣

 

「北の丸」跡は、「西の丸」跡より少し小さめですが、そこからの眺望はまた見事です。目の前に見える高い山は「観音寺城」跡がある「観音寺山」その左に大きな山の手前に濃く見える山が「安土城」跡がある「安土山」、そしてその手前に下には「琵琶湖西の湖」だそうです。

 

「北の丸」跡

北の丸からのぞむ(安土山、観音寺山、頂上は観音山城、手前は琵琶湖西の湖) 

 

そこから東に廻ると、「本丸」跡に建つ「村雲御所 瑞龍寺門跡(もんせき)」の入口「山門」があり、さらに階段で「本堂」に向かいます。

 

北の丸から本丸東側の石垣 

北の丸から本丸東側の石垣 

村雲瑞龍寺門跡付近石垣 

「村雲御所 瑞龍寺門跡」 山門

「村雲御所 瑞龍寺門跡」 本堂 

 

この「門跡(もんせき)」は、1596年「秀次」の母「日秀尼公」(秀吉の姉)が、「秀次」の菩提を弔うために「後陽成天皇」から寺号を授かり「京都村雲」に創建されたものです。1961年に「秀次」が初めて城持ちになった当城に、主要建物が移築されました。

 

「二の丸」跡の展望台からは、「八幡堀」を中心に栄えた「八幡山城」城下が一望に見下ろせる絶好の場所です。

 

「二の丸」跡の展望台

「二の丸」跡の展望台

「二の丸」跡石垣

 

展望台の中には、資料らしきものが添付されていますが、もう少し管理を良くして説明書きをした方がいいと思いました。

 

「二の丸」跡周囲も石垣に囲われた場所で、いよいよ「ロープウエイ」山上脇にある下山道を麓の城下に向けて降りていくことにします。

 

次回は、「八幡堀」とその周囲の城下街並みをお届けします。

 

 

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