外圧で開国を迫られ、安政の大獄や将軍継嗣問題、攘夷運動等が高まる中で、幕府が威信低下していく幕末から、最後の将軍”徳川慶喜”が大坂から江戸へ逃避する迄の期間中に起こった出来事に纏わるお城をシリーズ化しました。

 

「二の丸御殿」(国宝、車寄・玄関と遠侍)

 

この間の概ねの歴史的出来事については、前回のブログ(下記)を参考にしてください。

 

 

本日は、”徳川家茂”が14代将軍に就任し、公武合体政策で皇女“和宮”と婚儀しますが、幕府に対して攘夷期限を迫る”孝明天皇”の理解を得る為に”家茂”は上洛し「二条城」(京都府京都市中京区)に入城します。

 

「二条城外堀」(お城の南側)

 

少し話が幕末からそれますが、「二条城」と呼ばれているお城は、時代々々の権力者が「京」を抑える為に築いたお城がありました。本格的なモノは、室町幕府13代の「足利義輝」の「二条御所」で、「永禄の変」で「松永久秀」「三好三人衆」が謀反を起こしたときに焼失します。

 

その後、「織田信長」が室町幕府15代将軍として「足利義昭」を担いで上洛した時に、「義昭」の為に築いた「二条御所」で「旧二条城」と呼ばれています。しかし、「信長」と「義昭」が不仲になり、「義昭」を1573年に追放した後は解体され、当時「安土城」建築真っ最中だったので、一部資材として転用されたそうです。

 

「旧二条城」碑 (平安女学院の北側)

「旧二条城」界隈 (平安女学院の北側)

旧二条城の石垣(地下鉄烏丸線工事で発掘された石垣を御所の南西隅に展示) 

 

また「信長」の京都で滞在する際の宿所として使用されていたのが「二條殿(古二条城)」で、後に「正親町天皇」の皇太子に譲ったので「二条新御所」とも呼ばれています。元々は公家「二条家」の二条邸であったモノを「光秀」とともに「京都奉行」であった「村井貞勝」に命じて改修させました。「本能寺の変」では「織田信忠」が籠城した場所となったそうです。

 

「京都まんがミュージアム」裏手の「両替町通り」沿いに「二條殿跡」碑

現在は、「烏丸御池」駅すぐの北西にある「京都まんがミュージアム」周辺

 

「豊臣秀吉」が「京」における拠点として築いたのが「二条第(にじょうてい)」で、天守も築かれていたようで、1587年に「聚楽第(じゅらくてい)」を築城させるとそちらへ移りました。

 

そして、関ケ原の戦い後、「徳川家康」が天下普請で建てたのが現在の「二条城」で、1603年には、現在の「二の丸」部分を完成させ「家康」の征夷大将軍の祝賀等一連の儀式が行われました。この祝いの儀式は、二代将軍「秀忠」、三代将軍「家光」まで引き継がれました。

 

天守は1606年に完成させ、1611年に当城で「豊臣秀頼」と会見を行い、「大坂冬の陣」では本営として使用されました。

 

1619年に、「秀忠」の娘「和子(まさこ)」が「後水尾天皇」に嫁入りする前に入る宿館として使用する為に、大規模改修を行いました。

 

更に1626年、三代将軍「家光」の時に、「後水尾天皇」による「行幸」を受け入れる為に、西側に増築して現在の「本丸」が造られ、天守台には「伏見城」の天守が移築されました。しかし「行幸」終了後は、多くの建物が解体や移築され、現在でもその遺構を目にすることができます。

 

「二条城」御殿の一部が、現在「三渓園」(横浜市中区本牧に移築「聴秋閣」として現存重文)

「二条城」御殿の一部、現在「三渓園内の聴秋閣」(家光から春日局に与えられ、稲葉家江戸屋敷に移築)

伝「二条城」の建造物(現在は、世田谷観音寺の阿弥陀堂で、金閣寺を模している)

 

そして1634年には、「家光」は30万人と言われる大軍を率いて入城しましたが、朝廷や西国大名に対する威嚇的なデモンストレーションであったようです。

 

その後、4代将軍「家綱」から約230年間、城主不在のお城で「二条城代」から「二条在番」制となり江戸からの交替武士が管理しました。1720年には落雷で「天守」を焼失、更に火事で「本丸御殿」や「隅櫓」も焼失、地震で櫓や門や一部御殿も倒壊などがあり、それらは再築することなく幕末に至ります。

 

1862年に14代将軍「家茂(いえもち)」が、約230年ぶりの上洛を果たしますが、それに備えた「二の丸御殿」の修復と本丸には「仮御殿」が建てられました。1865年には、「第二次長州征伐」の為に再上洛した「家茂」は「大坂城」に移りますが、翌年病死します。

 

15代将軍「慶喜」は、1867年9月に「二条城」に入城しますが、10月には二の丸御殿の「大広間」で「大政奉還」を行い、政権を朝廷に返上しました。その後12月までの間は、当城の「本丸」に建てられた「本丸仮御殿」に居住していたようで、その古写真が残されています。

 

二の丸御殿の「大広間」

 

「二条城」の曲輪は、「輪郭式平城」で、「家康」の建築当時は現在の「二の丸」が「本丸」で単郭でしたが、「秀忠」「家光」の時に複郭となります。当初の「本丸」(現在の「二の丸」)は、現在の東半分しかなく望楼型「天守」が北西隅に御所を見下ろすように建っていたようです。

 

そして現在の「本丸」は西側に増築され、「内堀」を隔てて周囲を「二の丸」で取り囲まれています。「本丸」への東出入口は「本丸東櫓門」で、「二の丸溜蔵」間とは「廊下橋」で連結し、西側は「本丸西虎口」からの出入りになっていました。

 

「本丸東櫓門」(重文)と「内堀」(櫓門と左の二の丸「溜蔵」とが「廊下橋」で連結していた)

「天守台」から見下ろす「本丸」跡(明治時代に移築された現在の「本丸御殿」-後編で説明)

「本丸西虎口」

 

お城全体の出入口は、東側に「東大手門」を置き、西側に「西門」を、北側には「北大手門」がありました。この「北大手門」は、1626年の「後水尾天皇」行幸時に、御所からお迎えができる最短コースとして造られました。また「南門」もありますが、こちらは「大正天皇」の「行幸」の際に建築されたものです。

 

「東大手門」(重文)

「北大手門」(重文)

「西門」(重文)

大正天皇の行幸時に建てられた「南門」

 

「天守」は、当時の「本丸」(現「二の丸」)北西隅だったのを、造成した「本丸」の南東隅に天守台を置き、廃城にした「伏見城」の望楼型天守を五重五階の層塔型天守に改築して移築されましたが、1750年に落雷で焼失してしましました。

 

「天守台」

 

次回は、「二条城(中編)」は、現在の遺構を詳細にお届けします。

 

 

 

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