明治維新時に東北諸藩が結成し「奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟」藩のお城紹介をするシリーズです。

 

「薩摩藩」「長州藩」を中心とした明治新政府が、幕末に「京」や「江戸」で受けた取締りの報復もあって、「会津藩」と「庄内藩」を“朝敵”にしました。新政府に“朝敵”の赦免嘆願するべく東北諸藩が一丸となって結成されたのがこの「同盟」でしたが、それを拒否されたことから「同盟」が軍事化していきました。

 

本日は、「請西(じょうざい)陣屋」(真武根陣屋ともいう-千葉県木更津市)をお届けします。いよいよ、各お城の紹介としては、最後になりました。

 

土塁と山林の間に見える陣屋石碑群

陣屋石碑群

 

城主となった「林家」は、「松平家」に仕えた三河譜代の家であり旗本となりましたが、11代将軍「徳川家斉」の小姓であった「林忠英」は、小姓番組頭格を皮切りに、御側御用取次などを歴任して加増を重ね、更に若年寄に就任して1万石に達したことで諸侯に列して「貝淵(桜井)」に陣屋を構えます。 ※「貝淵(桜井)」も木更津市内です。

 

しかし、「家斉」が逝去したことで、寵愛を受けていた「林忠英」は他の幕閣から粛清を受けて、1万7千石まで加増された石高も7千石が取り上げられ、1850年に「忠旭(ただあきら)」は、貝淵に隣接している請西に陣屋を築き「請西(真武根)陣屋」とします。

 

「請西(真武根)陣屋」の案内板

 

最後の藩主「林忠崇(ただたか)」は、戊辰戦争では、自らが「脱藩」して遊撃隊に加わり新政府軍に敵対し、東北地方を転戦する勇ましい大名でした。

 

しかし、新政府軍に敵対したことから、新政府軍から睨まれ、大名を改易されることになります。また「忠崇」は、官職は「従五位下」ではありましたが、幕末のどさくさの中で家名を継いだことで位職「〇〇守(かみ)等」を貰っていない唯一の大名でした。

 

また、昭和16年に94歳で亡くなりましたが、「最後の大名」が逝去したと、当時は話題になったようです。

 

「請西(真武根)陣屋」がどんな形だったかが良くわからないですが、現在では、広々とした空き地と山林となっていて遺構は全く見つけることはできません。

 

陣屋跡地をのぞむ

周囲は山林

山林と土塁跡?

陣屋敷地全景(真舟団地バス停付近から)

 

しかし幸いにも、陣屋跡地の一角には、立派な「陣屋碑」が3つと案内板が立てられているので、この碑の前から空き地を見ながら思いを馳せることができます。

 

陣屋碑(市文化財)

請西(真武根)陣屋碑、市史跡

真武根陣屋碑(昭和41年建立)

 

最寄り駅の「木更津駅」付近には、「證誠寺(しょうじょじ)」があり、お寺迄の参道沿いには愛嬌のある狸の置物が各所で並んでいます。「しょ、しょ、しょうじょじ、しょうじょじの庭は・・・・」の歌で有名なお寺です。「童謡碑」や「狸塚」もある可愛いお寺です。

 

たぬき横町入口の狸置物

たぬき横町の狸置物 

證誠(しょうじょ)寺鐘楼

證誠寺内童謡碑

證誠寺内狸塚

 

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