明治維新時に東北諸藩が結成し「奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟」藩のお城紹介をしているシリーズです。

 

「薩摩藩」「長州藩」を中心とした明治新政府が、幕末に「京」や「江戸」で受けた取締りの報復もあって、「会津藩」と「庄内藩」を“朝敵”にしました。新政府に“朝敵”の赦免嘆願するべく東北諸藩が一丸となって結成されたのがこの「同盟」でしたが、それを拒否されたことから「同盟」が軍事化していきました。

 

今回は、「村上城(前編)」(新潟県村上市)をお届けします。

 

村上城跡案内図

 

「村上城」の前身は、「本庄家」が築いた「本庄城」でしたが、「上杉謙信」でさえ手を焼くほどの自然要害で守られたお城だったようです。その後は、「謙信」と講和をして「上杉景勝」の配下になったことから、「景勝」の会津若松城への異動に伴い「本庄城」を手放すことになりました。

 

そして、「本庄城」を近世城郭に修築したのが初代藩主(城主)「村上家」と次の「堀家」でしたが、その後、「譜代大名」が次から次へと替わって入城します。

 

「村上家」の後は、「堀家」「本多家」「松平家」「榊原家」「本多家」「松平家」「間部家」と、野球でいえば相手バッターから打ちのめされた中継ぎ投手が目まぐるしく交代させられるイメージで城主(藩主)が替わります。

 

「村上城」は、左遷大名が4家も続いた為に、左遷先のお城とのイメージが定着したようですが、1720年に「内藤家」が入城してからは、「内藤家」から京都所司代や老中を出すことで名誉回復を果たして、やっと幕末・維新まで続きます。

 

本丸は高石垣

 

戊辰戦争では、藩内は意見が二分しますが藩主「内藤信民」は「同盟」に参加して「長岡城」攻めを続けますが、心労で「信民」は自殺し藩内は大混乱となります。

 

そこへ新政府軍が攻め込んで来たので、交戦派は「二の丸」に火をつけ「庄内」へ逃げ、恭順派が開城降伏します。

 

さて「村上城」についてですが、標高135mの「臥牛山」に築かれた「山城」を基に、山麓部に居館を設けて一体化します。更に、広大な「総構」も持つお城に発展します。

 

臥牛山

 

山城に登城する為には、三層櫓と二層櫓を三棟繋げた「一文字門」からの入城となります。あまりイメージができない形の門ですが、さぞや堅固であったと思います。

 

そして、麓からは「七曲」と呼ばれる山道で繋がっていて登城します。現在は「一文字門」前に碑が立ち、「七曲」道は存在します。

 

一文字門跡(三層櫓と二層櫓を三棟繋げた門).

一文字門跡付近(堀にかかった橋は跳ね橋)

七曲道

 

「三の丸」は、「靭櫓(ゆきやぐら)櫓」など2基が築かれていました。「三の丸」と「二の丸」の間のくびれた所には「四ツ御門」が置かれ、四か所方向に出入口があったそうで、現在もその石垣跡が残ります。

 

三の丸跡

靭櫓(ゆきやぐら)跡(三の丸内、二重櫓)

四ツ門跡(四ケ所に石垣がある、四方向へ対応)

 

 「三の丸」からの「二の丸」への入口は「御鐘門」が築かれていて、非常に堅固な守りとなっています。

 

 

御鐘門跡(外枡形)

御鐘門跡(外枡形、三の丸から二の丸の入口)

 

「二の丸」は、「櫓門」や「隅櫓」や「多門櫓」など10棟余りが築かれていて、「本丸」への入口は「冠木門」が枡形に構えていました。

 

埋門跡(二の丸、この向こうに戦国時代の城あり、帯曲輪から堅堀・虎口)

埋門から本丸跡を見上げる

冠木門跡の礎石

冠木門跡(外枡形、奥は内枡形になっている、二の丸から本丸入口)

 

山頂は、「本丸」「二の丸」「三の丸」が直線に並ぶ「連郭式」の縄張りです。

 

「本丸」は、高石垣の上に上下二段となっていて三重「天守」を始め「出(だし)櫓」「平櫓」「巽櫓」及び「多門櫓」などが曲輪を取り巻いていました。

 

本丸高石垣(7~9m)打込接で上下二段

本丸出櫓跡石垣(積み直し後)

出櫓跡と黒門跡(訪問時は工事中)

本丸隅櫓跡

本丸跡

天守台跡

天守台(1667年に三重の天守炎上、向こうは続櫓-多門櫓跡)

天守台に残る礎石

続櫓-多門櫓跡石垣

天守台から繋がる続櫓-多門櫓跡石垣

天守台から村上市内を見下ろす(向こうに日本海、村上駅方向)

本丸から三面川(ミオモテ)河口付近

 

ここから、一気に山麓まで下りて「山麓居館」周辺を見ていきます。

「山麓居館」の構えは厳重で、背後は山に、残りの三方には堀が置かれ、更にその周囲にも堀が取り巻いていました。

 

城主居館跡(一文字門付近から)

城主居館跡

 

その出入り口には、城内最大の櫓門「追手門」を始め「飯野門」「羽黒門」「下渡門」などを構えていました。現在は、その場所には案内碑が立てられているので、非常にわかりやすくなっています。

 

追手門(大手門)付近(城中最大の門、枡形形成し櫓門、現市民公民館と市役所の間)

中ノ門跡付近

飯野門付近、現在諏訪神社入り口

土塁(諏訪神社と税務署の間に残る)

小石垣門跡の碑

吉田門(御蔵屋敷通の出入口、道路屈折)

羽黒門跡付近

飯野門跡付近(諏訪神社前)

下渡門前の堀跡

居館東北を守備する門(二重櫓が二基付随していた、この内側が居館)

 

堀を越えたエリアには、多数の武家屋敷や、黒壁通り、町家が残されていて、非常に城下町の匂いがする街並みが拡がっています。こちらは、次回のブログ「村上城(後編)」で紹介したいと思います。

 

下記バナーのクリックをどうぞお願いいたします


お城巡りランキング

 

こちらのバナーのクリックもどうぞお願いいたします

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

PVアクセスランキング にほんブログ村