明治維新時に東北諸藩が結成した「奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟」藩のお城紹介を行っています。

 

「薩摩藩」「長州藩」を中心とした明治新政府が、幕末に「京」や「江戸」で受けた取締りの報復もあって、「会津藩」と「庄内藩」を“朝敵”にしました。新政府に“朝敵”の赦免嘆願するべく東北諸藩が一丸となって結成されたのがこの「同盟」でしたが、それを拒否されたことから「同盟」が軍事化していきました。

 

今回は、「村松城」(新潟県五泉市)をお届けします。

 

御城・御殿復元模型(南側から、手前南御殿、村松郷土資料館内)

 

且つて「村松」には、「上杉家」が越後の国を統治していた際に館を設けていましたが、1639年に村上城主だった「堀直寄」の次男「直時」が分封され、二代藩主「直吉」によって陣屋が築かれたのが最初です。無城大名の期間が長かったですが、1850年に九代藩主「直央(なおひさ)」の時に城主格になったことから、お城の大改築が行われ、以降「堀家」の居城として幕末・維新まで続きます。

 

幕末時には、藩の中で意見が二分していて、旧守門閥派が尊王攘夷派の「正義党」の七人を処刑する「村松七士事件」が起こり、佐幕派が優勢となったことから「同盟」へ参加をすると、今度はこれに反対する藩士が自刃する等、藩内は揺れ動いていました。

 

村松七士の碑(戊辰戦争時の亡くなった者を称える碑、住吉神社内)

 

「同盟」軍に属した藩士は、長岡にまで転戦しますが降伏し、更には新政府軍によって「村松城」は落城します。ただ、その前に正義党は、前々藩主の子供を擁立して新政府軍に恭順、新政府軍の先鋒としての働きをしました。

 

村松城」は、主に「本丸」と「二の丸」で構成されて、この間には堀が設けられました。そして、「本丸」には「御書院」が、「二の丸」には「南御殿」がそれぞれ立派な御殿を造営し、「本丸」の北西隅には「櫓」も設けられました。

 

また、「二の丸南御殿」の中には池を持つ中庭が造園され、本丸御書院敷地入口には、枡形の「御門」が築かれ、その前には土塁と堀で守られていました。

 

本丸跡内にある郷土資料館内には、近年発見された城郭絵図『御普請方絵図』(上記に掲載)などに基づいて作成された「本丸御書院、二の丸南御殿」の模型が展示されています。

 

御城絵図(1911年村松藩士山田氏が作成、村松郷土資料館)

御城・御殿復元模型(大広間、桝形御門)

御城・御殿復元模型(北西隅の櫓)

御城・御殿復元模型(南御殿)

 

現在は、他、資料館の前には、藩主が将軍の菩提寺「寛永寺」へ寄進した「村松藩紋入り手洗鉢」が「寛永寺」から返却されて展示されています。

 

村松藩紋入り手洗鉢(藩主が将軍菩提寺寛永寺へ寄進したもの)

 

「本丸」跡には、「二の丸」との境界の堀沿いに土塁が残る他、枡形「御門」跡とその門脇には堀跡と土塁が残っています。

 

土塁(右が掘)

御殿側敷地(桝形方向)

本丸と堀跡と帯曲輪跡

桝形門脇の掘と土塁

桝形御門脇の堀跡

御殿と南御殿の間の掘跡

東家(あずまや)

 

「二の丸」跡には、二の丸「南御殿」の庭園の池跡や、城内に建てられていた「稲荷神社」が現存しています。

 

二の丸跡

二の丸内南御殿庭園の池跡

二の丸内南御殿庭園池内の島跡 

稲荷神社(二の丸内)

 

「大手門」は、現役場付近にあって「大手門」跡の案内板が設置されている他、源太小路という小路が堀跡となっていることが紹介されています。そして藩立学問所跡には、文化会館が建てられています。

 

村松城後と城下地図

大手門跡(現町役場)

源太小路と堀跡

藩立学問所跡

 

お城以外にも、見るべきところが多く、村松藩五社の一つの「住吉神社」、戊辰戦争で亡くなった者を称える「村松七士の碑」(前述)、堀家菩提寺の「英林寺」 、城跡公園内に鉄道ファンには嬉しい「五泉~加茂間を走っていた蒲原鉄道車両」の展示、イギリス積みとフランス積みが同時に見れる「県立村松高校正門」(1903年、国登録有形文化財)など、興味をそそられるモノばかりです。

 

住吉神社の本殿と拝殿(総欅造り、市文化財)

堀家菩提寺英林寺

五泉~加茂間を走った蒲原鉄道車両(城跡公園内)

県立村松高校正門(1903年、国登録有形文化財)

 

次回のブログでは「黒川陣屋及び三日市陣屋」をお届けいたします。

 

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