明治維新時に東北諸藩が結成した「奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟」藩のお城紹介をするシリーズです。

当同盟は、「薩摩藩」「長州藩」を中心とした明治新政府が、幕末に「京」や「江戸」で受けた取締りの報復もあって、「会津藩」と「庄内藩」を“朝敵”にしました。新政府に“朝敵”の赦免嘆願するべく東北諸藩が一丸となって結成されたのがこの「同盟」でしたが、それを拒否されたことから「同盟」が軍事化していきました。

本日は、「三根山陣屋」(新潟県新潟市西蒲区)をお届けします。

三根山陣屋 藩庁図

 
1634年に「長岡城主」の「牧野忠成」の四男「定成」を、「三根山」の地に6,000石で分与したのが最初で、「交替寄合」という家格でしたが、石高直しで11,000石となったので、1863年という殆ど幕末になってからの大名への昇格でした。

そして三根山に藩庁として「三根山陣屋」を置き、藩校「入徳館」も開校しました。

戊辰戦争では、「同盟」に参加して、「庄内藩」とともに戦いましたが、宗藩の「長岡城」が落城したこともあって新政府軍に帰順、今度は「庄内藩」を攻撃対象とします。戊辰戦争後は、後述しますが、荒廃した宗藩「長岡藩」の支援(コメ百俵を送る)に動きます。

 

今も語り継がれている「米百俵」(周辺では「米百俵」の文字が掲出)
 


「陣屋」跡に掲出されている「藩庁図」では、「門」の両脇に「御番所」と「武庫」が構え、右側に「障釜場」、「門」正面に対面した「御殿玄関」の両脇に「御徒面謁所」と「大広間」が置かれ、その奥が「三の間」「二の間」「上段の間」等 を持つ「御殿」となっていました。
 
現在の「陣屋」跡は、「三根山藩址公園」となり広場が拡がっています。その隅には、「三根山藩址」石碑が立つ他に、旧藩の資料庫である「旧藩記念庫」の建造物が建ちます。
 
三根山藩址石碑
 
陣屋跡(三根山藩址公園)
 
陣屋跡(三根山藩址公園)
 
旧藩記念庫

 
 陣屋跡周辺


藩校「入徳館」跡は、旧「入徳館小学校」があった場所で、現在では廃校となって研修所となっています。初代校長であり藩の漢学者であった「新保正与」氏の碑も立っています。
 
入徳館小学校跡(旧藩校入徳館跡) 
 
新保正与の碑(藩の漢学者で入徳館教授)
 

 タブの老木(藩校跡地内)


「三根山藩」といえば、「米百俵」の美談として多くの人に知られています。「三根山藩」の宗藩であった「長岡藩」は、「北越戊辰戦争」敗戦後、食糧不足に陥ったので、支藩であった「三根山藩」が100俵の義援米を送り届けました。それを記念した「米百俵」碑が立ちます。
 
米百俵記念碑
 
 
「長岡藩」では、この送られた義援米の取り扱いを巡り議論がされましたが、結局、即効性ある庶民の飢えを満たすことに使用されないで、長期的な人材育成を行う為の教育機関への投資に使用されたというお話です。
 
それを決めた長岡藩士「小林虎三郎」の長期的な視点、先見さを美談として伝えられていますが、災害で食糧品が全く手に入らない中で、救援物資の補給を後回ししてまでも、災害対策のプロを育てる教育機関を造る為の費用にあてたということです。現代社会では到底受け入れられない決定だと思いました。
 
その良し悪しはさておき、三根山から「米百俵」を積み込んだ戸川の「船戸橋」下に「船着場」が残ります。
 
船戸橋 から戸川を臨む
 
船戸橋の船着き場 (米百表を積みこんだ場所)

 
 
「牧野家」の菩提寺「一心寺」は廃寺となっていますが、「牧野家墓所」が残り、各代の墓が並びます。
 
牧野家菩提寺一心寺
 
一心寺牧野家墓所 
 

 一心寺牧野家墓所内の墓標


この周囲は、米どころであり、広々とした田園が拡がります。
 
田園の中の陣屋跡遠景
 

 
次回ブログでは、「村松城」をお届けします。

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