私がかつて訪城した約25城の「模擬天守」を順次お届けしています。

 

今や市町村のシンボルであり市民権を得た状態で聳えているという理由で、「模擬天守」を採りあげています。そして「模擬天守」については以下の分類があると思います。

 

お城に「天守」があったものの、現在城域外のかなり違う場所に「天守」が建てられている場合

②お城に「天守」があったことが絵図や写真があるが、その絵図や写真とは全く違った形状の「天守」が建てられている場合

③お城に「天守」があったものの、「天守」の形が絵図や発掘物等何もなく判らない場合

④確かにその場所にお城が有ったと思われるものの、「天守」があったという史実が無い或いは確認されていない場合

⑤お城が有ったという史実が全く無い或いは確認されていない場合(今回のシリーズではこれは割愛します)

 

先日から、江戸時代に「藩庁」として使用された「お城」の支城のような位置づけのお城の「模擬天守」をお届けしています。本日は、「洲本城」(兵庫県洲本市)です。

 

日本最古の模擬天守(当城以前の1910年に「岐阜城」の模擬天守が建てられたが焼失)

 

「洲本城」は、熊野水軍の「安宅(あたぎ)家」が築き、「三好家」から養子を迎えて勢力維持を図るものの、「豊臣秀吉」軍に攻められ「豊臣方」のお城となります。

 

「豊臣」政権下では、「脇坂安治」等が城主となりますが、関ヶ原の戦い後は「藤堂高虎」「池田輝政」の領地を経て、「徳島城」城主の「蜂須賀至鎮」が淡路国を与えられ「稲田家」が「由良城」の城代として入りました。

 

しかし1630年頃に「洲本城」に居館を設けて移転することを幕府に認めてもらい、三熊山の麓に御殿中心の「下の城」を設けます。

 

「上の城」は、脇坂時代には「大天守」と「小天守」を繋ぐ連結式天守だったようですが、その形状などの実態は不明だとのことです。

 

現在、三熊山山頂には「大天守台」の上に四脚を設けて、非常に小さい三層三階のRC造りの「模擬天守」が建ちます。まるで「竜宮城」のお城の様です。上記「模擬天守」の分類では③に相当します。

 

可愛い「竜宮城」の様な天守

天守台下から見上げた模擬天守

 

これは、1928年(昭和3年)の昭和天皇即位式を記念して築城され、現在では最も古い「模擬天守」となっています。その「大天守台」の横には「小天守台」の石垣が残っています。

 

大天守台に建つ模擬天守

大天守台の東側に残る小天守台

 

「洲本城」には、朝鮮出兵した「脇坂安治」が朝鮮半島の「倭城」の技術を導入した「登石垣」や、「下の城」の御殿の一部「金天閣」が現存していて、見所が沢山あります。

 

次回ブログは、「川島城」(徳島県吉野川市)の模擬天守をお届けします。

 

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