昨日のブログで「長居植物園」を投稿しましたが、それからJR阪和線「長居駅」から電車に揺られ「伯方(はかた)陣屋」(大阪府和泉市伯方町)へ向かいました。

 

最寄り駅は「信太山駅」で、陸上自衛隊「信太山駐屯地」や「信太山新地」があることでも有名です。

 

改札は東側にあり、そこから右手(南東方面)の丘陵地へ向かうと「信太山駐屯地」、左手(北方面)へすこし歩き東側の丘陵地を上って行った所に「伯方陣屋」が拡がっています。

 

陣屋絵図(大阪府文化財センターの資料内「伯方藩関係資料目録」より)

 

しかし、今回北方面へ進みすぎてから東側へ上って行ったので、道に迷う羽目になりましたが、途中「放光公園」入口付近で立っている「灯篭」を見つけました。その案内書には、「大坂湾航行用の灯台の役割をした灯篭(大坂住吉の灯台とともに)で、小栗街道の伯太北出口と放光池の堤防上に立っていた」とのことです。

 

大坂湾航行用の灯台の役割をした灯篭

 

この辺りから見下ろすと、遠くに大阪湾が望める場所ですので、当時船で「大坂湾」に入り、この灯篭に火が灯されていたら良く見えたんだろうなーと当時を思い感激しました。

 

さて、「伯方陣屋碑」がある陣屋跡を探すべく、公園で休憩されている住民らしき方に聞いても判らず、スマホのグーグルマップで検索すると、大きな道路を挟んでもう少し南側であることが判明、後はマップ案内に沿って辿り着きました。

 

右側の空き地に陣屋碑

 

いつもそうなんですが、最初からスマホを活用すれば良いのに、手持ち資料(地図付)と勘を頼りに取り合えず進む悪い癖です。

 

案内に導かれ到着した場所は、空き地内に「碑」がポツリと立つのみ、その「碑」も表裏共に本当に「伯方陣屋碑」なのか判別がつかないようなモノでしたが、確かにそこだということでした。

 

伯方陣屋碑(記載されている内容が読み取れない)

伯方陣屋碑(裏側も記載されている内容が読み取れない)

 

旧陣屋絵図を所持していたので見てみると、陣屋は「信太千塚古墳群」の中にあり、それらを取り込んで古墳の堀を活用したり、南側にも池を三つ並べて「掘」替わりにしているように見えます。

 

「陣屋」の中心には「御屋形」が、周囲に「小役人長屋」「作業小屋」「米蔵」「的場」等が置かれています。そして西側には「大手門」を桝形にして構え、東側には「裏門」を置いて、その間にはほぼ直線の道が通して武家屋敷が張り付いていたようです。

 

藩主は「渡辺家」で、「源頼光」の四天王の一人だった「渡辺綱」の子孫で、元々は武蔵・河内・和泉国に領地が有りましたが、武蔵国の領地が近江国に移されてから、和泉国の大庭寺へ転封となり、更に1727年に当地に陣屋を築いたそうです。

 

因みに、「裏門」は現在「小谷城郷土館」(堺市豊田)の表門に移築されています。写真は、以前「郷土館」に訪れた時のモノです。

 

伯方陣屋の裏門(堺市豊田の「小谷城郷土館」に移築)

伯方陣屋の裏門(堺市豊田の「小谷城郷土館」に移築)

伯方陣屋の裏門(堺市豊田の「小谷城郷土館」に移築)

 

そして、最も興味的なのは、東西1.2㎞、南北3.0㎞の陣屋の周囲を赤い土塀で囲われていたそうで、「伯方の赤塀」として伝えられているです。麓や海から丘陵先端に見える赤塀は、圧巻だったと想像できます。

 

さて現在ですが、「陣屋碑」の周囲は何も遺構は見られませんが、1本南側の細い道角の木々の下に「旧伯方藩武家屋敷」という碑がひっそりと立っていて、そこのお宅は武家屋敷だったような雰囲気を醸し出していました。

 

「旧伯方藩武家屋敷」碑

 

その細い道を振り返ると、今でも大阪湾を見下ろすことができ、住宅街の南側には、池が今でも並んでいます。

 

陣屋跡付近(坂道の奥に大阪湾が望める)

浅池(一番西側の池)

漆池(真ん中の池)

管池がある方向(一番東側の池)

 

更に、その道を東側に上って行った所には、「丸笠神社」の鳥居が立ちますが本殿はなく、北側のもっこりした「丸笠山古墳」の前方が拝所として境内地になっているそうです。

 

丸笠神社の鳥居(奥に、拝所となる「丸笠山古墳」)

「丸笠山古墳」とその堀

 

そこでUターンして、「信太山駅」に戻ります。「大手門」「裏門」だった場所の特定ができなかったことが名残惜しいでしたが、途中「伯太神社」とその脇には背の高い灯篭があり、以前来訪した時には、ここを通過してから陣屋跡を目指した記憶が蘇りました。

 

伯方神社の灯篭

 

JR「信太山駅」から、今度は「岸和田城」を目指すべく、「東岸和田駅」を目指します。

次回ブログでは、「岸和田城」をお届けします。

 

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