「天守」が現存している12城の「天守」を、6回に亘って、各方向から見た姿・顔を掲出するシリーズでお届けしてきました。

 

今回のブログからは、「復元・復興」で再建された「天守」を、「現存天守12城」と同じように、色々な方向から姿・顔を追っていきたいと思います。

 

その前に、ここで少し復習をしておきますが、「天守」の数ってどれだけあったのでしょうか?

 

戦国時代には、何万というお城が建てられ、その中には物見を兼ねた天守風の建造物が結構な数が建てられました。更に江戸時代に入って暫くの間は、「豊臣方」対「徳川方」の睨み合いが続く中で雨後の筍のように、天守を持つ「近世城郭」が築城されました。

 

しかしながら、「大坂夏の陣」も終わってひとまず戦いの世の中にピリオドを打つべく1615年には、「一国一城の令」によってかなりの数のお城が破却されました。

 

そして「江戸幕府」は、一応お城と名を語れるモノは約170城に絞り込み、お城ではなく陣屋構えにして居住できるのを約200城にしました。

 

この約170城の中で、「天守」を持っていたのが「117城」と謂われています。江戸時代約260年の間に、落雷や失火、老朽化によって撤去するなどして1854年頃(ペリーが来航した嘉永期頃)には、65城までに激減したようです。

 

幕末・明治維新にかけて勃発した内戦(戊辰の役や西南戦争)でも、「会津若松城」や「熊本城」等が失われ、明治6年の「廃城令」が出されたことで、一挙に旧体制の象徴である「お城」のシンボルが「天守」ということで、多くが失われました。

 

その後、残された天守は、太平洋戦争が始まり後半には本土襲撃によって、1944年(昭和19年)まで残っていた20城の天守が、一気に7城(北から順番に、「水戸城」「名古屋城」「大垣城」「和歌山城」「岡山城」「福山城」「広島城」も戦災に遭遇することとなります。

※「首里城」の本殿は「天守」に数えず

 

戦後、日本人のお城好き気風に後押しされて、「水戸城」を除いく「天守」が市民の努力等によって再建されました。また、戦争でも焼けないで残った「松前城」は、昭和24年に失火を起こしてしまいましたが、こちらも外観復元が行われました。

 

これらの7城は、戦前まで現存していて、多くの写真や図面、礎石などが残されていましたので、比較的復元がされやすかったと思いますが、昭和時代の間は、建築基準法などの規制で木造による高層建築物の復元は許可されていなかったので、殆どのお城の天守は鉄筋コンクリート造りでの再建でした。

 

前置きが長くなりましたが、まずは、戦後焼失した1城と太平洋戦争で失われてその後外観復元された6城の天守を、様々な方向から掲載していきたいと思います。

 

松前城天守(外観復元)> 北海道松前郡松前町

・三層三階、単独式、破風無しの層塔型、白漆喰総塗込め、幕末1855年に幕府からの要請で築城、1949年に失火して1960年(昭和35年)再築、

・松前家 3万石格(最終石高)

 

左に重文「本丸御門」、このアングルは良く目にします

南面

本丸御殿玄関跡から(西側から)

本丸御殿跡から(北西方向から)

本丸御殿跡から(北面)

内堀越えの北方面から

 

次回は、「広島城」をお届けします。

 

下記バナーのクリックをよろしくお願いいたします。


お城巡りランキング