本日、摂津市に勤務していている友人が、阪急電車「摂津市駅」前の「コミュニティプラザ」において、「摂津市とお城」というテーマで発表会をするとの情報を得たので、昼前からそちらへ向かいました。

 

「摂津市駅」の一つ手前の「正雀(しょうじゃく)駅」で下車して、以前から興味があった「味舌(ました)陣屋」跡(大阪府摂津市味舌)を訪れることにしました。

 

「味舌陣屋」跡付近に「織田尚長」によって建てられた「味舌天満宮」

 

何故興味があったかといいますと、この陣屋は「織田信長」の実弟「織田長益(有楽斎)」が、知行地としてこの地が与えられて陣屋を江戸時代初期に設けた場所だからです。

 

「長益」は、「信長」が本能寺の変で亡くなった後、「織田信雄」の配下に入り「小牧長久手の戦い」時には「徳川家康」に接近して、「豊臣秀吉」との和僕の仲立ちをします。その後「秀吉」のお伽衆として政治的な関わりはせずに、「秀吉」の茶飲み友達、お話相手を務めたようで、2千石を「味舌」に得てこの頃に「有楽」と称するようになったそうです。

 

天満宮境内の紅梅

 

しかし関ヶ原の戦いでは、東軍に属して手柄を立てて、大和国を中心に3万石を得ますが、息子たちに分与して自分は1万石を隠居料として領するだけとなります。領地の殆どが大和国にありましたが、その後の豊臣対徳川の対立が進むにつれて「淀君」と「家康」との中を取り持つ動きを求められて、大坂城近くの「味舌陣屋」を居住地にしていたようです。

 

結局は、両家の不和は緩和されず、「長益(有楽)」は大坂城を去りますが、彼の跡次も逝去したり相続が巧くいかずに、「長益」死後は当地は没収となり、存在期間が短い陣屋となりました。

 

天満宮境内の白梅

 

先日のブログ「犬山城」(前編)でちょっと触れた、犬山市内の「有楽苑」に移築現存して国宝指定されている茶室「如庵」は、「織田有楽斎」好みの茶室でした。

 

「味舌(ました)陣屋」跡は、全く遺構を探しあてることができませんが、その近辺に建つ「味舌天満宮」は、「長益」の五男「尚長(ひさなが)」が「味舌」で産れ、その後「柳本陣屋」を拠点とする「柳本藩」主となったことから、1635年に出生地であったこの地に天満宮を造営しました。

 

周辺地図

 

味舌天満宮

味舌天満宮本殿(檜皮葺、拝殿は一間社流造り)

味舌天満宮境内

 

天満宮の西側は「山田川」が流れていて、この川が天然の堀代用となっていたと思われます。この川の東側一帯で、現在の「味舌公園」や「味舌小学校」辺りが、陣屋跡だったそうです。

 

山田川越しに「味舌陣屋」跡付近

陣屋跡付近の「味舌下公園」

陣屋跡付近の「味舌下公園」

陣屋跡付近の「味舌小学校」

 

また近くに、「木下勘兵衛討死の地の由来」碑なるものが立っています。これは、「信長」が石山本願寺を攻め入った時に、味舌の「馬場正義」が門徒衆の「木下勘兵衛」等を引き連れて大いに「信長」方を苦しめて和睦に至ったが、「信長」は苦戦に追い込んだ「正義」を憎んで、家臣に「正義」討伐を命じたことから、「勘兵衛」は「正義」を逃がして自分が犠牲になってこの地で殺害されました。その後「正義」は、味舌に戻って「勘兵衛」を弔い、善政を行ったとのことです。

 

「木下勘兵衛討死の地の由来」碑

「木下勘兵衛討死の地の由来」碑

 

あの強烈な性格を持つ「織田信長」の弟でありながら、特に政治的にも経済的にもあまり興味がなく、当時の武将としては珍しくガツガツしないで茶の湯を楽しんだ「長益」の人柄を素敵だなーと、この界隈を散策しながら思いました。

 

ここから、少し歩いて「摂津市駅」に向かい、駅前の「コミュニティプラザ」に到着しました。

 

摂津市立コミュニティプラザ

 

友人は、「摂津市内」にあった戦国時代の三城「一津屋城」「黒丸城」「三宅城」について紹介しました。この三城も特に遺構はなく碑や説明書きだけの場所ですが、築城当時の歴史的背景や下剋上で入れ替わる城主や領主の動きの中で展開する三城について説明があったので、非常に興味深く楽しく拝聴することができました。

 

 


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