赤穂城」(兵庫県赤穂市)の続き、「後編」です。

 

前編 https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12572422048.html

中編 https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12572724094.html

 

「船着場」と「水手門」跡と外観復元「米蔵」

 

前回ブログでは、「二の丸」跡東側の土手に上り、前回は「二の丸東北隅櫓」台と「舟入」を見ました。

 

城跡案内図

 

そこから土手沿いに南下します。途中「二の丸東櫓」の櫓台工事が行われていてその先には「潮見櫓」台が整備されていました。

 

そこから西に向けて石垣が折れてその先は湾のようになった所に雁木がある「船着場」跡と「水手門」跡が整備されています。

 

旧海岸(左)沿いの石垣、奥に「二の丸東櫓」台が見える

 

「二の丸東櫓」台

土塁側が工事中の「二の丸東櫓」台

「潮見櫓」台(左が海だった)

「潮見櫓」台

 

船着場の出入口は突堤になっていて、その中で黒鳥や鴨たちがゆっくりと羽を休めて浮かんでいました。

 

船着場入口の突堤  

船着場湾内の黒鳥 

 船着場と雁木、「水手門」跡、奥に外観復元「米蔵」

 

「水手門」跡側に廻り込むと、門の礎石が残されています。水際には、海から着岸して舟から降ろされた穀物類等の物資を保管しておく「米蔵」が建っていた場所で、現在は外観復元して休憩所となっています。

 

「水手門」跡

「水手門」跡の礎石

外観復元「米蔵」

「米蔵」の内部

「二の丸」跡の池越しの「米蔵」

 

「米蔵」風の建物から西側に拡がる「二の丸」跡を「二の丸堀」沿いの土塁上を歩きましたが、折れを何度か繰り返して進みますと、「二の丸庭園」の南端の城壁に突き当たります。

 

「二の丸」跡の周囲を囲う「土塁」

 

「二の丸」跡周囲の土塁上から総合体育館方向(右側は海だった)

「二の丸」跡周囲の土塁上から「三の丸」跡方向(左側は海だった)

 

その高台からは、城壁越しに復元「二の丸庭園」がのぞめ、更に「二の丸庭園」と「三の丸」跡との出入口であった「西中門」跡や、「三の丸」跡内の「西南隅櫓」台と「干潟門」跡の石垣を確認することができる絶好のポジションでした。

 

「西中門」跡

「三の丸西南隅櫓」台と手前が「干潟門」跡

「干潟門」跡

 

 

土塁上から「二の丸」跡に下りて池端を歩くと「二の丸」を南北に二分する棟門の「西仕切り門」に遭遇します。ここからは、「本丸堀(内堀)」越しに、「本丸」跡周囲を囲う石垣と櫓台が良く見えます。

 

「二の丸庭園」との仕切土塀

復元「西仕切り門」(二の丸を南北に二分する棟門)

「本丸南西隅櫓」台から「刎揚橋」跡、「本丸東南隅」方向の横矢掛り

 

「本丸堀(内堀)」と「本丸」跡石垣沿いに本日入城してきた「大手門」跡に向けて足を速めて戻る途中、「本丸」跡内から「二の丸」跡を覗いた「刎橋(はねばし)門」跡が、石垣の大きな折れの真ん中辺りに位置しています。当時ここには、板が随時跳ね上げれる仕掛けの橋が架かっていたんでしょう。

 

「刎揚門」跡(二の丸跡側から)

本丸南東隅から、「刎揚門」跡、「本丸西南隅櫓」台方向の横矢掛り

 

「本丸堀(内堀)」跡沿いにどんどん進む途中には「東仕切り門」跡があるはずでしたが解らないまま通過、そして「厩口門」と「本丸東北隅櫓」前を通って、「二の丸門」跡へ戻りました。

 

本丸南東隅から「本丸南東隅櫓」台方向

「三の丸東隅櫓」台

 

「赤穂城」の縄張りに関わった兵法軍学者の「山鹿素行」の像が少し奥まった所に置かれているのに気が付き写真を撮りに行きました。

 

山鹿流「山鹿素行像」

 

かなり城内を歩き廻って疲れが出てきたことと、「播州赤穂駅」までの帰り道方向で「塩谷門」の高麗門が移築されている「花岳寺」に寄りたいし、時間的にもタイトとなってきたことから、「清水門」跡を見にいくことを断念しました。

 

「お城通り」の一本西側の道「お成り道」を北上して、古い街並みが残る「備前街道」との合流地点に建つ「花岳寺」の山門が移築された「塩谷門」です。 

 

「備前街道」と「お成り道」との合流地点、奥に「花岳寺」

赤穂城「塩屋門」(「花岳寺山門」に移築)

赤穂城「塩屋門」(「花岳寺山門」に移築)

「花岳寺本堂」

 

同伴した孫もかなりの疲れでしたので、境内で小休止してJR「播州赤穂駅」へ向かいました。当駅16時6分発の新快速で、「姫路駅」で乗り換えることなく「大阪方面」まで運んでくれました。

 

ほんとうに久しぶりの訪城でしたが、18年前に訪ずれた時の記憶では、城域だった敷地内に色々な建物があったように思っていましたが、今回、その敷地内は広大な広場と整備された櫓台、門跡、庭園、堀が横たわっていたので、将来的には城郭建造物も徐々に復元が行われるのではないかと期待が膨らみます。

 

藩主(城主)は、「浅野家」が5万数千石で城持ちとして入城しましたが、その後入城する「森家」は2万石ですので、このような広くて城郭建造物が多いお城を、維持管理できたのは「塩」のおかげだったのかなー思いました。

 

映画「決算!忠臣蔵」のポスター(昨年11月に公開された)

 

 

 

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